自己紹介  余談

本稿は平成22年2月に執筆したものである。  中山逍雀

 私は予てより、漢詩詞活動を25年65歳までと決めていた。そのときになったら辞めようと思っていたが、愚図愚図してしまい、現在既に30年70歳で有る。

 私は3月生まれだから、2月なら30年70歳で有る。来月になると、71歳に成ってしまうので、意を決し無理突飛を言って、2月限りで、葛飾吟社を脱会した。

 今はとても気分がよい。気分爽快である。

 ただ予定より5年遅れてしまい、漢詩詞の次に、何かを為そうと思っているが、時間が短くなったことには悔いが残る。
 まずは身辺整理に着手しなければ成るまい。

 財物も未整理があるので、整理に着手する。

 漢詩詞講座の改訂版の上梓が有る。

 新版も執筆しなければ成るまい。

 中国の詩友全員に挨拶状を出して、今后とも葛飾吟社後継諸兄との友誼を頼んでおこう。

 それが片付いたら、もう一つ何かを手がけよう!

 散歩途中の近所に、数人の漢詩詞好きな御仁が居る。散歩の途中だから暫くは漢詩詞のお付き合いを為そうと思っている。

 ただ曄歌は根付くまで100年を要する事業だから、息の続く限り続ける積もりである。

 葛飾吟社会員諸賢は、日本国内の漢詩詞環境に安堵し慢心して、国際評価させる努力を怠ることがないように、心懸けて戴きたい。

 日本国内漢詩壇で評価されても、中華詩詞壇では評価されるとは限らないことを知らねばならない。

 多くの中国人は、余程気心が知れた相手でなければ、作品に対して巧拙を問はず必ず褒めて、真の評価を為すことはしない。

 此で褒められたと勘違いする日本人が実に多いのである。諸君はこの現実を辨えなければならない。

 中華詩詞壇で評価されなければ、如何に国内評価があっても、国際的見地からその価値は無いに等しい。

 諸君が道筋さえ通せば、中国の多くの詩詞壇で、諸君を受け入れてくれる。

 その様な環境は既に私が作ってあるので、諸君の努力がその正否を決める。

  漢詩詞愛好者各位の御健吟を祈る。

                      中山逍雀 頓首

 

私と漢詩詞結社 中山逍雀

 私の生家は農家だったが、別棟の書庫があり、頼山陽の日本外史や唐詩選、二宮尊コ報徳記、論語などの書籍があった。
 父は論語が好きで、私を座らせて・・・孔子曰く・・・と、説教まじりで話した。詩歌の本は余り好きではなかったが、二宮尊コの報徳記は好んで読んだ。

 高校一年の頃、自ら請うて頼山陽の日本外史を父に教えて貰ったが、数巻で途切れた。家庭の事情で、高校二年に進まず春四月に風呂敷包みを背負って働きに出たのである。

 職は転々としたが、得るところも多く、苦に思ったことは一度もない。愉しい歳月を過ごした。

 其れは私の生き方に依るのだろう。私は何をするのにも目標を立て、期限を設けるのである。目標が達成されなくても期限が来たら止める。達成したら止める。出来ないと分かったら直ぐに止める。3年以上は生命の保証がないから、3年以上先の目標は立てない。

 私が漢詩詞に興味を抱いたのは、近くに住む友人、岩淵良雄氏が、詩吟「神風流」(会員数4万人)祖師の甥であったことも起因する。

 私は友人の誼で詩吟を教えて貰ったが、生来の音痴は克服できなかったが、努力の甲斐あって詩吟神風流総本部から指導者の許状と看板を貰ったので、当初の目標が達成されたので止めた。当時は指導者としての技量は有ったのだろうが、その後30年間も、一度も声を出したことがないので、音痴は100パーセント元に戻った。即ち現在は正真正銘の音痴である。

 この詩吟が切っ掛けで少年時代の記憶が甦り、漢詩に興味を抱き、吟詠を創作に方向転換する気持ちになった。

 時を同じくして、ゴルフ場造成工事現場で、下っ端の監督をしていた。板場の夜は長い。町から通ってくる職員に、図書館から明治書院発行の「漢文大系」を借りてきて貰い、2回通読した。(明治書院に依れば全100巻程有るそうだが、町の図書館にはランダム15巻しか無かった)

 漢文大系を読んで、漢詩は案外簡単に創れそうに思えたので、吟詠を創作に切り替えた。創作への方向転換と言っても、その手掛かりが有るわけではない。たまたま手にした“大法林”に漢詩が載っていて、選者に高橋藍川師の名前が有った。

 和歌山県田邊の高橋藍川師の下へ手紙を出して訊ねたら、黒潮吟社の会員は400人居るそうで、入会すれば添削して貰えることを知った。「だれ漢」を教えられて直ぐに買った。簡単と思って、直ぐに投稿したら、そのまま白紙で帰ってきた。次の月には“見るに忍びず”と書かれていた。その次の月は“年寄りを殺す気か”と書かれた居た。

 同じように広島の太刀掛呂山師にも教えを請うた。山陽吟社には250人ぐらいの会員が居たそうだ。

 どうしても解らない点があったときは、夜汽車で和歌山縣田辺まで、或いは広島県広島市まで行き、教えを請うてトンボ返りした。

 高橋藍川師から、雅号を付けるように促された。皆さんの雅号を看ると、どれも此も、単なる標識に思えて仕方がない。

 私が未だ風呂敷包一つで走り回っていた頃、同じ工場に台湾出身の女性が働いていた。高橋藍川師に逢った当時は、未だ私の心の隅に住み着いていたのだろう。今ではその姓名は忘れたが、その名にあった「雀」と言う文字を使ったと言う記憶がある。

 短期間で習得するために、和歌山の橋藍川師と広島の太刀掛呂山師の兩師に師事した。高橋藍川師は僧侶、太刀掛呂山師は教育者と、兩師にはそれぞれに異なる詩風があって、此が幸いして異なった詩風を比較しながら習得することが出来た。

 兩吟社との付き合いは長いが、兩師が説く詩法を習得するのには、3年有れば充分であった。

 その後、橋藍川師の補助として、毎月会員100人の絶句と律詩の添削を代行した事もある。ただ其れは生業が多忙に成ったので、一年に満たずに辞退した。

 昔のメモを探ると、昭和55年当時、私は生活費のために、個人的に朱筆をしていた記録がある。吟社の添削料よりも100円高かったようで、一首の料金は、五言七言絶句共に300円・五言律詩は400円・七言律詩は500円・古詩は600円であつた。此は朱筆のみで、解説は一切書かない。解説を書けば2倍の料金を頂いた。この夜鍋仕事は生活費をだいぶ潤した。

 高橋藍川師登仙の数年の後、過去の業績を振り返り、嘗ての紙片を寄せ集め、自他の峻別は曖昧だが、300律詩を編集した。現在この300律詩を見ると、中国詩詞壇の詩風とは、微妙に異なる日本詩壇の詩風が窺い知れる。当時の私は此を懸命に学んで居たのだが、今から見れば、中華詩詞壇には余り通用しない作品の見本としては格好の作品集である。(300律詩は日本詩歌と同じ詩法で作られた作品である)

 兩師より関東での漢詩吟社の設立を促され、その気になったが、兩師には申し訳ないが、国内で学んだ知識だけでは、中国国内では通用しないことに危惧して居た。 通用しないままに、会員を募ることは無責任なので、納得が行くまで知識を充填する事とし、詩壇設立を延期した。

 その為に、新たな情報源として中国国内に、指導者を求める事にした。中国詩詞壇との連携を図る爲に、滋賀県の大井清老を訪ねた。大井清老のご尽力により、北京の詩人“李芒先生”との知遇を得て、老師が老境に至まで、詩法と添削指導を受けた。更に四川省に赴いた折、交流会に同席した国文学教授の詩人に対して、添削指導を交渉し、幾許かの添削料を払って継続的に指導を受けた。

 その間にも、南京師範大学の国文学教授を初めとする、多くの中国詩人諸賢に、詩詞応酬に交えて、添削指導を所望し、詩法と添削指導を受けた。

 僧侶で有れ、書家で有れ、俳句や短歌で有れ、中国での交流会があると聞くと、頼み込んで、便乗参加をした。
 更に今の私は古稀を過ぎて、すっかり臆病者になったが、当時は若さもあり、知らぬ者の怖さ知らずで、中国詩詞壇からの招聘に、数度は一人で参加もした。

 それらの努力により、概ねの詩法習得が出来たと自覚したので、漢詩詞同好会「葛飾吟社」を設立し、同好の指導に当たることを決意した。

 千葉県松戸市社会教育認定団体第310號 葛飾吟社を登録したのは、昭和55年・1980年・41歳の時である。

 当初は右往左往の状態で、漸くにして進むべき道を得たのは、直接の師で有った高橋藍川師と太刀掛呂山師が他界した後の事である。

 私は吟社を創設するに当たり、中華詩詞壇に通用する作品が作れて、中華詩詞壇の諸氏と対等に詩詞討論が出来る知識を保持することと、先賢老師からもたらされた知識を文字情報に整理して、後継者に引き継ぐことを決めた。

 漢詩詞は構造解析が進んだ定型詩歌である。私は諸賢の指導によって構造を習得したので、此に従って学習すれば、優秀作品は別としても、大過ない作品を創るのに、30回も話せば充分である。毎週の講義なら1年で、月1なら3年で達成されると目論んだ。

 当時は生業を為していたので、決められた日時に必ず講座を開くには、かなり厳しい状況であった。週1で10回連続の開講なら、どうにか可能である。都合が付けば次の10回講座も開講するが、多忙なら、改めて開講する事にした。

 当初は松戸市広報に募集広告を載せていたが、松戸市民新聞(タウン紙)の責任者と懇意になり、今度は有料で松戸市民新聞を利用するようになった。

 その時時、10回講座を松戸市広報に募集広告を出せば好いのであった。その当時一回の広告で、二十人ほどの受講者が集まり、借りていた公民館の定員は20人であったから、何時も満席であった。

 講座は松戸市内の公民館を借りて、月4回、1回2時間、午後1時から3時までとした。

 講座内容は、古典・近代の漢詩詞の鑑賞を為して、同時にその作り方を教えると言う方法であった。殆ど総ての人は、5回も話を聞くと、五言絶句は出来るようになり、10回講義を聴けば七言絶句が創れるようになった。

 短期講座の生徒諸氏は、次がないから学ぶことに熱心である。質問が多くて会場明け渡しの時刻が迫り、隣の図書室まで、席を移したことも多多ある。同じ事を何度も話すことはしなかったが、今から思えば、当時の出席者は理解も早く覚えも早かった。

 漢詩同好会は勉強ばかりが活動ではない。私は何の働きかけもしなかったが、受講者の中には、必ずや世話好きの人がいて、小型バスで名所旧跡を回り、即興詩を為した。曄歌などの新短詩は、そのときに芽生えたものである。

 一泊・二泊の旅行も企画するものが居て、南紀や岩手や青森や日光や鬼怒川や長瀞などにも吟行を為した。

 作品集を作ろうという話は当初から有って、筆まめな人がプリント版を創ってくれた。何方の命名かは忘れたが、誌名も衆議一決して「杖下之四季」と成った。何方が書いたかも定かではないが、誌名の由緒を次のように述べた。

 杖下一寸四方を眺めれば、砂粒無数、昆虫の屍、何処から飛んできたのか花びら一枚、どれも此も歴史があり、深い心がある。

 たった惟だけの處にも、こんなに多くの物語がある。

  ましてや、人の立っている三尺四方は如何に広大な世界か、四季の快楽と悲傷は深遠にして大宇宙に相当する。
 私はこの文言が気に入って、此を漢訳して黒龍江省で発行している“曄歌”の標題にも使わせて貰っている。

  在詩人的脚邊,可能有無數的塵土沙粒,些許昆虫的残骸,幾片不知從何處飄來的花瓣。所有這些,都有其各自的歴史,都會給人以某種的感受。
  看到沙塵,能聯想到大自然的遼濶,看到昆虫残骸會引起淡淡哀憐,看到花瓣會感慨世間盛衰無常。
  僅這咫之地就有許許多多的故事,更何況四季的快楽與悲凉正可謂天門開闔。

 作品集は鉄筆・謄写版刷りやワープロ打ち・コピー刷りの手作りで、不定期出版だったが、受講者は律儀にも舊誌名を継ぎ、誌名を「杖下之四季」として、六巻ほどは刊行した。

 受講者には経過を愉しむ人と成果を愉しむ人がいる。10回の短期講座であれば、経過を愉しむ人は排除される。

 成果を愉しむ人は、10回講座の中で、目一杯に知識を習得しようと努める。依って五絶や七絶ぐらいは出来るようになる。

 私は中國詩詞壇交流を為すに当たって、達成目標を立てていた。中國の政治でも詩詞界でも重鎮と言われる“林林先生”と握手をして一緒の写真に収まる事である。目標達成の暁には、漢詩詞講座から手を引く事にした。中年になって漢詩を学んだが、その関与期限を目標の達成日までとして、古希までも続ける積もりは毛頭無かった。

 国内での活動は遅遅としていたが、中国国内での知名度は順調に推移し、その当時既に中国国内での足掛かりは出来て、今後3年以内に目標が達成される目途が付いた。

 然し此方の準備が出来ていない。先方に会うには、此方から同好を引き連れてゆく必要がある。短期講座で集めた同好では、技能が物足りないので、継続講座の必要性が出てきた。

 私も生業に余裕が出来たので、継続講座が可能になった。短期講座は、回毎に受講者の七割は入れ替わるので、延べ受講者は多くなるが何回短期講座を重ねても、五絶以上の詩詞知識は講じられない。依って、短期講座を廃止して、長期講座に移行することにした。

 短期講座には、其れなりに未練はあったが、技能向上のためにやむなく長期講座に移行した。依って三割の人に、長期講座を為したのである。講座の趣旨変更を為した途端に受講者は徐々に減り、細々と言う状態が訪れた。途端に学習意欲は激減した。言い換えれば学習意欲の少ない人だけが残ったとも言える。

 今田莵庵兄と小畑旭水兄が訪れたのは、この頃である。それから3年経過した1997年、日中国交回復25周年に合わせて、北京に於いて中山栄造新短詩研究討論会を開催した。

 林林先生と握手を為し、一緒に写真に収まった。当初の目標は達成された。

 当初の目標が達成された暁には、漢詩詞壇を退く事にしていたのだが、矢鱈に煽てられ愚図愚図して辞めないで居ると、中國側での評価は私に関係なく、徐々に上昇し、2000年・2002年・2004年・2005年・2009年と、交流研討会が催された。更に今年20010年には中國上海で交流会が計画されているようだ。

 漢詩詞が好きか?と問われれば、漢詩詞との関わりは、目的達成のための行動で有って、私そのものは、詩歌などの文芸はそれ程好きではない。現在まで続いているのは、止める機会を逸して仕舞ったからに他ならない。労を惜しまず働いてくれる小畑旭水兄や、石倉鮟鱇兄や代表を引き受けてくれた芋川冬扇兄の姿を見ると、止めると言い出せないのである。

 物事を学ぶのに教室は要らない。必要なのは、解らないことを教えてくれる人物が、手の届くところにいることだけで十分である。財物でも知識でも、欲しかったら自分の手で引き寄せるほかはない。財物も知識も先方から転がってくることは稀である。

補追
 中国国内の漢詩詞家と詩詞の応酬で交わると、○○詩詞壇の顧問になってくれと申し込まれる。程々気軽に引き受けていたので、今ではその詳細は忘れている。先方の誌面に小生の名前が載っている場合は記憶が蘇る。

 中華新韵学会顧問・吉林省《精彩》理事・福建省《梅櫻葉》顧問・黒龍江省《曄歌》主編・新紐四海詩社基本社友・詩吟神風流匡風會顧問などは時折目にする。

 詩詞の応酬や交流会に顔を出せば、手紙の遣り取りは多くなる。2010年では400名弱の手紙の相手方がいる。
 新年と暑中見舞いの挨拶状は、文面を10種類ほど作って、差し込み印刷で裏面を書いて、表書きと、裏面の署名と遊印と20円切手を貼り足している。

 現在は手控えたが、数年前までは、先方からの手紙に直ぐに返事を書いていた。月に50通の手紙があり、各々に歩韵を書いて返信していた。

 其れでは忙しすぎるので、この頃は月末までは返事を出さずに、次月に一ヶ月掛けて返事をすることにした。これで来信は月に10通に減った。

 中国人は個人の資質に重きを置き、肩書きはそれ程に評価の要素にはしない。日本人は中國側に対して肩書きを誇示する傾向があるが、中國側にしてみれば、肩書きはどうでも良いことで、個人の資質が重要な要素となる。

 漢詩詞交流の場合、当事者の作品の資質が重要な要件で、高い評価を得れば、個人でも其の名が広まる可能性は十二分にある。逆に肩書きで広まる可能性は殆ど無い。

  平成22年1月29日(金)
  于松戸茅屋