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本文抜粋 50頁から60頁

七の一  初唐

  霊陰寺 五言排律 駱賓王

○ ○ ○ ○ ○  ○ ○ ○ ○ ○

鷲嶺欝?嶢,龍宮鎖寂寥。

 鷲嶺欝として?暁 龍宮は鎖されて寂寥

 

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樓観蒼海日,門對浙江潮。

 楼には観る蒼海の日 門に対す浙江の潮

 

○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

桂子月中落,天香雲外飄。

 桂子月中より落ち 天香雲外に飄る

 

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捫蘿登塔遠,刳木取泉遥。

 蘿を掴んで塔に登る事遠く 木を抉りて泉を取る事遥かなり

 

○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

霜薄花更發,水輕葉互凋。

 霜は薄く花更に開き 水は軽くして葉互いに萎む

 

○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

夙齢尚遐異,捜對滌煩囂。

 夙齢遐異を尚び 捜對煩囂を滌う

 

○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

待入天臺路,看余渡石橋。

 天台の路に入るを待って 余が石橋を渡るを看よ

 

? この作品は古典で有るから、平仄も押韵も古典である。

? ○印の韻字と平仄を検して下さい。

? 此の詩の作者は、「宋之問」として掲載された詩集もある。

 

 若い頃から遥かな世界の珍しい物に憧れていたが、今此の霊域を探り当てて、俗世の煩わしさが綺麗さっぱりと洗い流された様だ。

 これから私は天台の路へ入って行く、、、、。

 

  子夜春歌 五言絶句 郭震

   子夜春歌

陌頭揚柳枝,已被春風吹。

 陌頭揚柳枝 既に春風に吹かれたり

 

妾心正断絶,君懐那得知。

 妾が心正に断絶す 君が懐い那んぞ知るを得ん

 

? 詩題の「子夜歌」とは、楽府題。即ち歌曲の題名で、四 世紀「晋」の時代の頃、今の揚子江の下流、呉の地方に  「子夜」と呼ばれる女性が居て、歌曲を作って歌ったが、 其の曲が男女の愛情を歌って、甚だ哀切なものであった為、 当時の人々の好みに合い非常な流行を見た。

  此の曲を「子夜歌」と云い、初期には楽器の演奏を伴わ なかったらしいが、後には整備されて春夏秋冬の四部に分 けて歌詞が作られるに到った。

  其れが「子夜四時歌」で、郭茂倩の「楽府詩集」には、 春歌二十四首、夏歌二十首、秋歌十八首、冬歌十七首が収 録され、茲に挙げた詩は其れに倣って郭震が作った「子夜 四時六首」の中の春詩で、春に感じて夫を思う情を述べる。

 

  蜀中九日 七言絶句 王勃

九月九日望郷臺,他席他郷送客杯。

人情已厭南中苦,鴻雁那從北地來。

 九月九日重陽の節句に、名前からして郷愁をそそる望郷台に登り、よその土地のよその席で、旅人を送る別れの杯を取り交わす。

 私の心は、もうほとほと、南の土地の辛さに厭きているのに、何故あの雁は北の土地から南の土地へ飛んで來るのだろうか。

 雁は北の土地を故郷とするもの、其れが九月になっても飛んで来て帰ろうとしないのは、何と当てつけがましい眺めであろうか。

 

? 此の詩は一句を七文字で歌う七言絶句で、絶句という名 称は既に六朝時代から用いられて居るが、其の語源に付い ては律詩の八句を半分に断ったものだと言う説、又は歌謡 である楽府が四句を一つの単位として歌った事から、これ だけを断ち切って作った詩で有るという説など、種種な説 明が行われていて今日に定説はない。

  何れにしても絶句は四句で歌われた詩の事で、一句五文 字の詩を五言絶句と言い、茲に挙げた詩のように一句七文 字の詩を七言絶句と云う。

  五言は既に六朝の時代から多く作られたが、七言は唐に 入ってから時代の要求に応じて急速に発展した新しい詩形 である。唐では七言が多く作られ五言は比較的少ない。

  尚、唐以後の絶句は、五言七言共に近体詩として作られ た作品が多く、韻律や押韻の規則も、律詩の其れと変わり はない。

 

七の二  盛唐

 盛唐とは、玄宗の改元から玄宗の子蕭帝(名亨)迄の約五十年間を云い、丁度杜甫の活躍した時代でもある。

初唐百年間に昇り続けてきた唐の国運が、厭が上にも栄え海内は太平の全盛時代であった。

 然し其の全盛の中にも何時しか頽廃の影が忍び寄り、天寶に入ってからの玄宗の治世には、国家を破滅に導く条件が幾つも重なりつつ有った。

 政治に飽きた玄宗が、揚貴妃の愛に溺れた事と、其の間隙に、渦巻いた李林甫・揚国忠・安禄山の三巴の勢力争などで、幸いにも乱は間もなく平定されたが、これに依って受けた傷は癒すべくもなく、国運の衰退は加速されていった。

 こうした時代の前半、全盛の時代には多数の優れた詩人が肩を並べ、一時に美しい花となり、色とりどりに咲き乱れた。

 王維は仏教的な静謐の中に、孟浩然は自然の中に逃れて、共に山水自然の美を歌い、王昌齢は七言絶句に閨怨の世界を、高適や岑参は邊塞詩人の名を欲しい侭にしたが、然しIMG18 ISBN 7-5325-0497-2 何と云っても最大の詩人は李白と杜甫である。

 此処で初唐と盛唐に登場する詩人を挙げる。

初唐

魏徴  王績  王勃  揚烱  廬照鄰 駱賓王 李?

蘇味道 劉庭芝 張若虚 沈?期 宋之問 蘇?  廬撰

郭震  賀知章 李?  胃韋  元旦  陳子昴 張説

賈會  張九齢 孫逖  張啓忠 張諤  劉庭  王幹

 

盛唐

孟浩然 張子容 王湾  李?  李適之 萬楚  祖詠

蔡希寂 丁仙之 崔國輔 王昌齢 王之渙 崔  崔曙

李燈  張均  玄宗皇帝 王維 裴迪  丘為  李白

儲光義 常建  張巡  杜甫  高適  岑参  李華

蕭頗士 賈至  張謂  厳武  葭業  崔恵道 崔敏童

櫻穎  張審  呉象之

 

  春暁 五言絶句 孟浩然

眞 先 仄 覚効篠 語御 文 斎 篠 (古典韵)

春眠不覺暁,處處聞啼鳥。

 

仄 灰隊東 遇 庚 歌 薬 支 歌 篠

夜來風雨聲,花落知多少。

 これは春の夜明けにベットの中で、うつらうつらとしながら、戸外の春を詠んだ詩で、第一句にも押韻していて、仄文字押韻の詩である。(日本では仄韵の作品は、古詩の範疇にするが、古詩の定型絶句もある)

?  「多少」とは、日本語とは異なり、肯定+否定=疑問 で是不是 能不能 会不会などと同様の疑問詞で有る。

 

  閨怨 七言絶句 王昌齢

斎 東 篠嘯有仄 支 尤 眞 質 蒸 陽 漾養仄尤 

閨中少婦不知愁,春日凝粧上翠樓。

 閨中の少婦愁いを知らず、春日粧いを凝らして翠楼に上る

 

月 霰 陌 尤 陽 有 職 隊 効肴虞 霰 錫 冬 尤

忽見陌頭揚柳色,悔教夫婿覓封候。

 忽ち見る陌頭揚柳の色、悔いゆらくは夫婿をして封候を覓め教しを

 

 閨とは婦人の部屋、その中での女性の物思いを詠ずるのが、「閨怨詩」である。茲に挙げた詩は出征兵士の若妻が、夫の帰りを待ちわびる嘆き悲しみを歌う。

 

 下町風情の平凡な女性であろうか、夫が従軍していても一向に其れが苦にも成らず、勿論人生の問題なんか考えた事もない。

 だから「閨中の少婦愁いを知らず」若い嫁さんは悲しみというものを知らずに、心は浮き浮き陽気に弾んで、うららかな春の日、良い天気だというので厚化粧をして二階へ上がってみた。

 ふと目に留めたのは何時の間に芽吹いたのか、往来の端の柳の色の鮮やかさだ。その柳は夫が出発の時、一枝折って別れに贈ったあの柳だと気付き、急に彼女は後悔する。

 早く手柄を立てて下さい等と云って仕舞ったものだから、独り寂しく過ごさねば成らないのだと、、、、、、。

 

 詩は初めて茲に至って、主題の閨怨を詠う。

 

  涼州詞 七言絶句 王之喚

陽 歌 願阮漾養陌文刪 質 霰 虞 康 願 震 刪

黄河遠上白雲間,一片孤城萬仭山。

 黄河遠く上る白雲の間、一片の孤城萬仭の山

 

陽 錫 歌珈虞 願問陽有 眞 陽 有尤物月薬遇沃元刪

羌笛何須怨揚柳,春光不渡玉門関。

 羌笛何ぞ須いん揚柳の怨 春光は渡らず玉門関

 

? 羌笛とはチベット遊牧民族、羌族の吹く笛。揚柳とは 「折揚柳」と呼ばれる別れの悲しみを述べた笛の 曲名。

 こんな所で戎の笛が、どうして柳を怨んで「折揚柳」の調べなど吹く必要があるのだろうか、中国本土を照らす春の光は、玉門関を越えてこちら迄は来ず、此処には揚柳も無く有っても芽を吹かないと云うのに。

 柳が芽を吹かぬ事を怨む事と、曲に述べられる別れの怨みをも意味する。

 

? 此の詩に付いてこんなエピソードが伝えられている。

  ある時王之喚が親友の王昌齢や高適と連れだって、とあ る酒楼に上がっ たところ、たまたまそこに来合わせた宮廷 楽師十数人が名に聞こえた妓女を挙げての大酒盛り。三人 は密かに相談して云うには、これらの名妓が三人の中、誰 の詩を歌うかに依って、その優劣を決めようと。

  斯くして待つ中、最初に歌い出されたのが王昌齢の詩、 次いでは高適の詩であった、気を悪くした王之喚「きゃつ ら老耄女の歌うのは下品の詩ば かり、上品の詩には近ずこ うともせぬものだ」と言い、妓女の中の一番の美人を指し て、「あの妓の歌うのが、拙者の詩でなかったら諸君との 張り合いは止めた。もし拙者の詩だったら諸君は床下に並 び伏して拙者を師と崇めるね」と。斯くしてその妓女が歌 ったのは此の詩(涼州詞)であった。

? 詩題に云う涼州とは、今の甘粛省武威県、当時は都を遠 く離れた邊塞の地で有った。

  その地方に唄われて居た俗曲に涼州歌と言う歌が有り、 玄宗の開元年間、時の西京都督で有った郭知運に依って、 朝廷に献上されたと云う史実がある。

  此の作は其れに合わせて新たに作った歌詞で、王翰の作 にも同じ様な詩がある。(詩詞譜編参照)

 

  怨情 五言絶句 李白

紙 眞 銑阮虞 塩 侵 個 眞 歌 支

美人捲珠簾,深坐顰蛾眉。

 

旱 霰 斎 元 緝  仄 支 侵 願 支

但見涙痕湿,不知心恨誰。

 

 女性と言っても恐らくは、天子の寵愛を失った官女で有ろうか、其の切ない恨みの情を歌った詩である。

 

七の三  中唐

 中唐とは、杜甫が亡くなる前年(大暦五年)から文帝の太和末年に至る約六十五年間の時期を云う。

 安禄山の乱は唐の歴史の転換であったと同時に、文学にも非常に影響をもたらし、即ち初唐から盛唐までの唐詩の発展丈を取って見ると、それはごく順調な上げ潮だったと言える。

 然し安禄山の乱以後、唐詩は目に見えない引き潮の中にあって、盛唐までの詩が春野の原を覆う百花斎放の季節だったとすれば、中唐以降の詩は秋の草花の様な詩で、人の目を奪う強い色彩は最早無いが、然し秋の七草や菊の花を思わせる物は矢張り咲き続け、亦吹きすさぶ木枯らしに耐えて、強い骨を持った詩人も少なくなかった。

 

中唐

劉長卿 包何  皇甫冉 郎士元 朱放  長継  張南吏

顧況  釈皎然 載叔倫 銭起  李端  耿?  司空曙

廬綸  韓翊  韋応物 李益  王表  王烈  王建

羊士諤 武元衡 孟郊  張籍  韓愈  欧陽・ 張中素

呂温  劉禹錫 劉宗元 元穎  賈島  張?

 

  題木居士二首 七言絶句 風刺詩 韓愈

  其一

 

火透波穿不計春,根如頭面幹如身。

 火の透り波の穿って春を計らず 根は頭面の如く幹は身の如し

 

偶然題作木居士,便有無窮求福人。

 偶然に題して木居士と作せば 便ち窮はまり無く福を求める人有り

 

 野火が通り抜け、川波が穴を穿ちつつ幾年過ぎただろうか、根は頭や顔のようで幹は身体のようだ。

 何かの機会に「木の羅漢様だ」と名付けられたばかりに、其の木偶人形にご利益を求める人が、限りなく居るものだ。

 

  其二

 

爲神?比溝中斷,遇賞還同爨下餘。

 神と為すは何ぞ溝中の断に比せん 賞に遭うは還た爨下の余に同じ

 

朽?不勝刀鋸力,匠人雖巧欲何如。

 朽蠧して刀鋸の力に勝へず 匠人巧なりと雖も如何んせんかと欲す

 

 神様に祭られて居るのは、溝の中の切れ端よりはましだが、愛でられたと云っても、薪の燃え残りの琴と同じで、ボロボロの虫喰いは、小刀細工する力にも耐えないので、腕利きの大工にもどうしょうも無いものだ。

 

? 木像を神として幸福を祈る人たちに対する風刺詩で有る。

 

  新楽府 五十編 其四十一  (諷諭詩)

  官牛 諷執政也 白居易

 

        麻魚          麻

官牛官牛駕官車,産水岸邊搬載沙。

 官牛官牛車を駕し 産水の岸辺より沙を搬載す

 

       宋腫冬          宋

一石沙 幾斤重,朝載暮載将何用。

 一石の沙 幾斤の重さぞ 朝に載せ暮に載せ将に何に用いんとす

 

         斎         斎支

載向五門官道西,緑槐陰下鋪沙堤。

 五門官道の西に載せて向かい 緑槐陰下の沙堤に鋪く

 

        漾陽         斎霰

昨來新拝右丞相,恐怕泥塗汗馬蹄。

 昨來新たに拝す右丞相 泥塗馬蹄を汚さん事を恐怕れ

 

   漾陽

右丞相。

 右丞相

 

   屑         屑

馬蹄踏沙雖浄潔,牛領牽車欲流血。

 馬蹄砂を踏み清潔なりと雖も 牛の首は車を牽きて血を流さんと欲す

 

  漾陽             陽

右丞相,但能澪人治國調陰陽。

 右丞相 但能く人を済い國を治め陰陽調えば

 

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