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自序

 漢詩詞は外国の詩歌であるにも拘わらず、日本文化に違和感なく溶け込み、多くの愛好者が居る。

 書道 吟詠 鑑賞など、漢詩詞に関わり有る文化活動は盛んに行われているにも拘わらず、その各々が個別に活動し、漢詩詞そのものについて、もっと掘り下げてみようとする者は少ない。

 以前は、詩も書も吟詠も、皆同床で有ったものが、何時のまにか自己の分野だけに専念するようになった結果、他人の作品を他人の解釈によって、書いたり吟詠したりするようになった。

 漢詩詞関連書物は幾多と見掛けるが、その殆どは作品を愉しむための観賞書である。日本詩歌にも文字面の趣旨と、文字の中に秘められた趣旨が有るのと同様に、漢詩詞にも文字面の趣旨と、文字の中に秘められた趣旨がある。そして表面的な趣旨は、あくまで、表面的な趣旨に他ならない。

 漢詩詞は漢民族の文化であり、内面的な趣旨が極めて重要で、其れには深遠な理由がある。民族の歴史は覇権の歴史でもあり、詩は作者の深奥表現でもある。

 作者の深奥が為政者の思惑に馴染むとは限らない。作品は文字となって、身の危険は常に付き纏う。因って叙事は、必然的に興となる。表面的な趣旨ではなく、その裏に隠された趣旨が、本義となる。

 為政者の権力が衰えれば覇権争いが盛んに成る。何時の時代も同じだが、こういう時代は比喩隠喩が持て囃される。

 最近で謂えば、百人に一人(諸説有り)が犠牲(文化人の率は極めて高い)と成った文化大革命がある。収束して、未だ三十年余りである。この現実を知れば、漢詩詞の意図は文字面の趣旨ではなく、文字の中に秘められた趣旨で有ることが、具に理解できる。

 然し、日本の書店の棚には、作品の奥底を知るための著述は、殆ど眼にしない。作品の本旨が読み取れなければ、作品の眞の意図は解らない。

 作品の本旨を知りたかったら、最低限詩詞法と、読者の持論整理が必要で、本書はこの一部を担うものである。

 なお目次も索引も、テキストとして重要な部分なので、項目を細かにして編輯した。

 次に詩歌による日中の文化交流を図るには、双方の詩歌文化を知る必要がある。漢民族には漢詩詞があるのと同様に、日本には短歌や俳句がある。

 漢民族向けの俳句短歌のテキストは有るが、何れの著作も俳句短歌の専門家に依るもので、何れの著者も、現代の漢詩詞では恐らく素人で有ろう。

 因ってその著作は俳句短歌の尺度で書かれていて、漢詩詞の尺度を用いる漢民族には、本質的な理解は得られないのである。

 其処で著者は、前述の著作を補完する意味で、漢詩詞の尺度を用いて「日本詩歌浅談」と題し、俳句短歌の解説を為した。

 更に言語の違う民族が、詩歌による文化交流を為すには、互に相手側の詩歌を学ばなければならない。然しこの事は、謂うは易く行うは至難で、誰でも思い付くが、未だに多人数の定着には到っていない。

 双方に通用させるためには、相互の詩歌理解も一つの手段だが、共通の詩歌を創設する事も一つの手段で、その方が効率的である。

 幸いにも日本人社会でも中国人社会でも、殆ど同一の文字を用いているのである。依って著者は、俳句・川柳・都々逸・短歌に相当する曄歌・坤歌・偲歌・瀛歌を発明し、中国全土の詩詞壇並びに華僑詩詞壇に、長年に亘って四定型の普及活動を為した。

 因みに、曄歌の曄は、日本の日と中華の華の合成文字である。坤歌偲歌瀛歌もそれぞれに、意図を持って命名された定型名称である。

  平成21年10月8日

        松戸の茅屋にて 中山逍雀

曄歌坤歌偲歌瀛歌三連五七律自由漢詩笠翁対韻羊角対漢歌漢俳填詞詩余元曲散曲楹聯はこの講座に記載があります