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緒論

 

 詩(広義の)の基本は個人的な持論に依拠し、他者に訴えようとする痛烈な心の叫びである。

 “ひと”には、各自それぞれの持論がある。同感であれ、反感であれ、抑えきれない心の躍動が有ってこそ、“ひと”をして創作行動に駆り立てるのである。

 然し、雑然模糊とした持論は有るが、其れが殆ど整理されて居らず、心の躍動に繋がらない。心の躍動が無くとも「詩詞擬き」は出来るが、擬きはあくまで擬きで、文字遊びの域を出ない。

 創作に当っては、先ず作者の因って立つところ、即ち詠おうとする事物に対する持論を確定しなければならない。持論が確定して、初めて詩詞の創作に着手出来るのである。

 此の講は百人百様に持論を異にする内容であり、異論は本冊の本望とするところである。異論があるからこそ、自分の考えが確かになるのである。

 ところが時折、書物に書かれていた持論や、聞いた持論を持ち出して、比較する御仁が居る。此では自分の持論との比較に成らず、自分の持論を確かめることが出来ない。

 必ず“私の持論は・・・である。!”と、自分との比較で語らなければならない。

 創作者は創作に先立って、対象とする“事象”に対する、自分の考え方を確かにしなければならない。自分の考えが確かだからこそ、“事象”への同感、或いは反感が謂えるのである。詩詞創作の意図は、胸臆の持論を他者に伝えようとする自発的な行為である。伝えようとする意図、訴えようとする意気込みが無ければ、詩詞作品とは謂えない。

 本冊の記事は、“事象”の見出しとも云え、殆ど身近に見聞きした事柄で、著者自身の体験ではない。

 何故に著者の体験に基づかないのかと謂えば、実体験は思い入れが強く、意固地になり、無理強いし、客観視が損なわれる弊害があるので、敢えて実体験は避け、身近に見聞きした他人様の事柄を題材にした。そして其れの云々は、強いて他者に主張するものではない。

 見出しの位置を見失わないために、小話の題名と【項目123】と連番を付け、再読の便宜を図った。

 持論は本来個個人固有の物事で有るから、著者と同じで有る筈が無い。此処に書かれている【項目】は、著者の程程宜しい持論で、自ずとこの【項目】に對しての、読者各位の持論が展開される。

 更に読者各位の持論を顕在化させるために、【私の持論は・・である。】の書き込み欄を設けた。紙面が足りなかったら、【項目000】を書き込んだノートを用意すればよい。

 持論の顕在化に依って、初めて詩詞作品を綴る基点が出来たのである。

 此処に書いた小話や【項目】は、著者が思い付いた事柄を書いたに過ぎない。【項目】は“ひと”それぞれに依って異なり、此処に書きだした丈では足りないかも知れない。

 読者諸賢は各自に【項目】を追加為され、持論の顕在に勉めて頂きたい。

 読者が書き込む欄がある。人の心は歳月と共に変わり、生涯同じと謂うことはない。書き換えられるように、鉛筆書きをお勧めする。日付を書けば心の推移が判る。

 

 同感!反感!

 本当に同感!と謂えることがあるのか?

 厳密には同感など有り得ない。

 思慮不足か?

 手抜きか?

 

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