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漢詩詞講座総論

 

 数千年前に文字が発明され、現代まで綿綿と文字の効用は受け継がれている。

 文字の効用は此を記す事で、場所と時間を隔てて、記した者の意思(或いは情報)を他者に訴えることである。

 文字の綴り方は、大まかに「詩(広義の)」と「文」が有り、この文字を読むことによって、文字を記した者の意思を、時と場所を隔てて読み取る事が出来る。

 その内容は単なる情報の提示と、記した者の持論(思想)の開陳とがあり、持論の開陳では、その文字を読んだ者(読者)が、記した者(作者)に同感し、或いは反感し、或いは無関心との三者である。

 当然にどの様な持論にも、同感する者と反感する者と無関心との、三者は居り、持論(思想)の開陳を為した者が、読者の反応に気遣う事は、何時の世でも同じである。

 ましてや社会が渾沌としている状況下では、記した一言半句が、時として不利益の原因と成るかも知れぬ事は、容易に想像が付く。

 持論には、必ず同感する者と、反感を持つ者と、無関心の者は居るが、だからといって詩人(広義の)には、反感を恐れて持論の開陳を、封印することは出来ない。

 然し書き方によっては、例え反感を持たれても、嫌疑の確証を掴まれる事もなく、身に不利益を蒙らない書き方が無いわけではない。

 反感から逃れるには、持論は表に出さず、表面上は通俗的なことを書き、持論を裏に隠せば(詩法としては“興”と言う)、誰からも反感を持たれることはない。

 

 扨この紙面は漢詩詞創作講座であるから、以後は漢詩詞に的を絞って書けば、・・・・

 漢詩詞は漢民族の詩歌で、漢民族社会は古代から現代に至るも、殆ど常と言えるほど、渾沌模糊とした歳月である。依って詩(広義の)を創作すると謂う行為は、不利益の原因となる恐れを、常に危惧しなければならない。

 もし、反感を持たれることを嫌って、差し障りのない云々だけを書いたのでは、持論を他者に訴えると謂う、詩人の本質としての創作目的から外れる。

 詩人は常に自己主張と、不利益を蒙る恐れの間に位置し、極めて危険な立場である。

 漢詩詞作品は、古典でも現代でも、根底の理念は殆ど同じで、著者に寄せられる中華人民共和国諸氏の作品は、殆ど表面的には当たり障りのない云々であるが、その内実は現実社会を憂慮し、世相を意識して書き綴っている。

 然し著者が目にする日本の観賞者は、語句解説や美辞麗句に精力を注ぎ、真意(作品の内実)を見落としている場合が多い。創作者は、古典詩法に拘泥し、持論の展開を曖昧にしている人が多い。

 現代中国の詩人達は、口を揃えて次のように謂う。

 中国の詩人は、国家と国民を憂い!

 日本の詩人は、自分自身を愁う!

 漢詩詞は漢民族の詩歌であるから、日本人が創っても、中国人の詩風に依らなければ為らない事は、当然のことである。

 次に作品の構成には、対象と創作者の位置関係がある。先ず対象観察では、@対象を見上げる、A対象と同位置、B対象を俯瞰するの、三つの位置がある。次いで、対象に対する創作者の心情位置は、@対象を敬意を持って見上げる、A対象と同位置、B対象を見下ろすの、三つの位置がある。

 本講には各々の解説補助として、歴史の資料、詩法の資料、或いは創作の資料として、適宜古典作品から現代作品までの、多くの作品を掲載してある。

 これら掲載の作品は、各々の解説資料として丈ではなく、作品そのものを、詳細に検討する爲のものでもある。則ち作品の、検討要件の順序は、

1−先ず対象の観察位置と、

2−対象への心情位置

3−次いで、作品の真意(作者の持論)を捜す努力を為し

  【解説】作者の真意は読者と作者の持論が交差した時にだけ読み  取れるので、誰にでも同様に読めるとは限らない。

4−作者が反感から逃れる手段として採用した方法と、

5−読者の貴方が 同感したのか、反感を持ったのか、或い  は無関心なのか、の三者何れかの判断を為す。

の五項目である。

 この事は全巻に謂えることで、此の学習を怠ると、作品の真意を知ることも、内実有る作品を創る事も出来ない。作品の真意は、表面上の云々に有るのではなく、読者の持論と、作者の持論との交差点に顕れる。因って作品を読むにも創るにも、持論が整理され顕在でなければならない。

 持論(思想)は、知識と経験が共に備わった時に培われ、個個人に依って各々異なる。作品の真意は、表面上の云々ではなく、読者と作者の持論が交差した時に顕れるので、作品の真意は読者によって各々異なるとも謂える。

 作者の持論と読者の持論の交差点が存在したと言うことは、文字を介して作者と読者の間で、意思の疏通が為され、作者の創作意図が達成された証である。

 なお読者は自己の持論(思想)が整理され顕在でなければ、作品の真意を捜せないし、文字面の云々を、恰も作品の真意であるが如く勘違いをする人もいる。

 持論の交点を見出すには、当時の歴史や世相を考究する事が、有効な手段の一つで、語句の解説に精力を注ぐ事は、真意(作品の内実)を探るには、それ程有効な手段ではない。

 創作者は自分を取り巻く現実社会の、騙し、偽り、嫉妬、称賛、賛同、理不尽、友情、親朋・・・・・等等、自分の体験と知識を糾合することから始める。

 観賞するにも創作するにも、体験と知識が共に備わってこそ、作品の本義に触れることが出来、確かな自己の思いが籠められた作品を創ることが出来る。創作と観賞は、作者と読者の、持論の往来である。

 

詩人詩家

 

 詩人や詩家と言う言葉は、人柄に対する呼称である。

 詩人や詩家と呼ばれる人柄とは

 長年に亘って培われた幾多の権威や、財物への執着を棄て、丸裸の“ひと”と成って、その心には明確な信念をもち、何事にも囚われない自由な心の持主として、常に大局を俯瞰し、周囲に對しては常に敬意を忘れない人柄を言う。(論語)

 たまたま詩詞が好きで、詩人や詩家と呼ばれる人柄を希求する人物を指して、世人は詩人或いは詩家という。

 渾沌とした世上に於いて、実際問題として詩人であり続けることは出来ない。因って一時的に詩人になる手段として、一つは隠遁であり、一つは同好との交わりである。

 同好と交わるほんの数時間は、世上の煩わしさから乖離される有為な時間である。

 詩の同好は、互いに師であり弟であって、師と弟との区別はないのである。

 知識の多少や作品の巧拙は、話題の一端に過ぎない。

 

 本講座を幾ら学んでも、詩法の修得までである。詩人や詩家と呼ばれる人柄に成るには、ご本人の修養以外に、他人にはどうすることも出来ないのでる。

 

 著者が詩家と言う人柄の端緒を初めて知ったのは、和歌山県田邊の黒潮吟社主宰高橋藍川先生(僧侶)である。ついでは中國の詩人各位である。(記念写真参照)

 何れの方々も、知友として処遇して呉れたのである。

曄歌坤歌偲歌瀛歌三連五七律自由漢詩笠翁対韻羊角対漢歌漢俳填詞詩余元曲散曲楹聯はこの講座に記載があります