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自序

 この巻は漢詩詞講座の最終巻で、巻九までで、漢詩詞に関わる知識の殆どは講じ終えた。
 この巻は著者の個人的なあれこれを書いた書冊で有る。先ず著者と漢詩詞との関わりを言うと・・・・、
 著者の、人生の始まりは物心ついた頃で、終わりは棺桶に入れられる時だろう。依って、現役とか退職とか老後とかの意識は毛頭無いし、棺桶に入れられるまで現役である。
 仕事とか趣味とかの区別もない。ただ好きなものに精力を注ぐ丈である。財貨も好きなので精力を注いだ!漢詩詞も好きなので精力を注いだ!のである。
 財貨でも漢詩詞でも、限られた歳月の中で効率的に達成することを旨とするのは、物事の常である。当然に達成目標は、分に応じた際限があり、財貨には目標残高が、漢詩詞にも達成目標はある。
 漢詩詞では、自己の作品が国際通用し、其れなりに評価されることが、達生目標である。
 詩詞に関わると、多くの人が其の「情」を説くが、情は個々固有で、強いて説けば傲慢の弊に陥りやすい。因って著者は必要とする以外に情は説かないし、著者の講義は、漢詩詞の詩法句法を説くことで、情を説くことではない。
 著者自身は大和民族の末裔を自認し、勿論俳句や短歌は好きだが、外国文学としての漢詩詞も好きな丈である。
 現実にはどの民族であれ、国家であれ、個個人を挙げれば、善良な人も不善の人も多く、思想も多様である。漢民族と大和民族は互に異なる民族で、異なる民族同士が交流しても、到底思想の共有に到らぬ事は承知している。
 かといって、「物似類聚」(類は友を呼ぶ)と言われる通り、漢詩詞の橋梁に依る交流であれば、それ程に意思の疏通を欠かない相手で有ろう事は、双方共に自認している。
 著者は思想の共有はしていないが、其れが支障に成るとは思っていないし、共有する意思もない。また個個人の意思と国家の意思とは、異なることは当然である!と自認している。
 著者は四十歳頃に漢詩詞愛好の目標達成の手段として、漢詩詞同好会を創設した。以後三十年に亘って漢民族との文化交流を為したのである。
 個個人の意思と国家の意思とは異なると言っても、国家の意思は個個人の集合體である。国家間の友好を維持するには、まず国民同士が互に相手の国民を知ることが必要である。
 漢詩詞同好会の人数など、微微たるもので有るが、ゼロでは無いのである。


 詩人とは・・・

 詩人や詩家と言う言葉は、人柄に対する呼称である。

 詩人や詩家と呼ばれる人柄とは
 長年に亘って培われた幾多の権威や、財物への執着を棄て、丸裸の“ひと”と成って、その心には明確な信念をもち、何事にも囚われない自由な心の持主として、常に大局を俯瞰し、周囲に對しては常に敬意を忘れず、相手に対しては常に損得抜きで慮っている人を言う。(論語・詩経)
 現実の言葉で教えてくれたのは“林 林 先生”である。

 渾沌とした世上に於いて、実際問題として詩人であり続けることは出来ない。因って一時的に詩人になる手段として、一つは隠遁であり、一つは同好との交わりである。
 同好と交わるほんの数時間は、世上の煩わしさから乖離される有為な時間である。
 詩の同好は、互いに師であり弟であって、師と弟との区別はなく、知識の多少や作品の巧拙は、話題の一端に過ぎない。

 私が詩家と言う人柄の端緒を初めて知ったのは、和歌山県田邊の黒潮吟社主宰高橋藍川先生(僧侶)である。ついでは中國の詩人各位である。(記念写真参照)

 現実の言葉で教えてくれたのは“林 林 先生”である。
 林 林 先生はこうも謂った。詩人とは人柄を指す呼称で、詩人が詩を創っても詩人と謂うが、詩人としての人柄のない人が詩を創っても、其れは詩人ではなくて、“詩を綴る人”と謂う!
 だから中国には、職業として、或いは対価を得て、“詩を綴る人”は存在するが、“詩人”と謂う職業は存在しない!

 日本には営利に絡んだ詩壇と謂う組織があると聞く。
 中国には営利に絡んだ詩壇は存在しない。
 そもそも営利に手を染めた時点で、詩人ではなくなるからである。

  たまたま詩詞が好きで、詩人や詩家と呼ばれる人柄を希求する人物を指して、世人は詩人や詩家ともいう。

 詩と謂えば何も漢詩詞に限った物事ではない。
 俳句も短歌も川柳も都々逸も皆、詩の仲間である。

 さて著者の周囲を見渡すと、確かに詩を創る人はいる!
 だが殆どは“詩を綴る人”である。
 幾ら詩法を学んでも、詩法の修得までである。
 詩人や詩家と呼ばれる人柄に成るには、ご本人の修養以外に、他人にはどうすることも出来ないのでる。

 中国の詩人は謂う!
 目の前の貴方が詩人なら、詩人としての対応を為し、
 目の前の貴方が詩人でなければ、普段の自分で対応する!

 私もその通りである!

 《梨雲》の表紙に林林先生から“梨雲”の揮毫を戴く
 日本で唯一、中國詩詞壇との交流を為す詩詞壇として、中國文化界の知るところとなり、その機関誌《梨雲》の表紙に、林林先生から“梨雲”の揮毫を戴いた。
 日本の詩詞壇機関誌に、“林林先生”に匹敵する人物の揮毫を誌面と為す機関誌は見たことがない。

 筆者が中国国内で多大な知遇を受けることが出来たのは、林仰山(筆名 林林)先生を頂点とする、多くの見識者が後押しをしてくれたからである。
 林林 先生を簡単に紹介すると
 福建省出身
 本名 林仰山
 筆名 林林
 元 外交官
 元  中國対外友好協会(政府機関)副会長
【解説】
 “林仰山”先生は“周恩来”首相の下で、“郭沫若”氏等と共に、中華人民共和国建設に尽力した人物の一人である。
 一時期外交官として印度に駐在し、後に中國対外友好協会(政府機関)副会長となった。
 中國と日本とは政府組織が異なり、中國対外友好協会は国務院中枢の官庁で、日本に置き換えれば、林仰山先生は外務大臣に相当する官吏であった。
【解説】
 “林 林 先生”は日本留学も為し、革命前後公私共に幾たびも来日し、日本に知友も多いと聞く。
 林林 先生は政界文学界何れにも著名な人物である。林仰山(筆名 林林)先生と中山逍雀との関わりは、詩人 林林 先生と、詩人(??)中山逍雀の関わりとなる。
 斯くして“林林先生”の知遇に依って、著名詩人著名官吏が、“ 葛飾吟社”“中山逍雀”を知ることとなった。
 著者は先ず北京に、次いで上海、次いで南京へと、その後は各地に足を運んだ。
 その時時、多くの諸賢と面談の機会を得た。その時に交換した名刺の一部を掲載した。

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