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詩を作る態度−私の場合 其之二TpPage

 私は詩の題材として、日常の有りの儘を写す事にしている。だが、有りの儘の姿を写したからと言って、其れだけでは「詩」にはならない。詩とは心の発露であって、心に何事も無ければ詩は出来ないとも言える。

 どんなに稚拙な言葉であっても、思うところが有れば「詩」で、思う所が無ければ、幾ら美辞麗句を書き並べても、言葉遊びでしかない。

 人が時間の経過の中で、何を思うのか?思わないのか、は、個人個人の心の有り様に帰着する。

 嘗て竹の子の詩詞を幾篇か作った。八百屋の店先の竹の子を見て、子供の頃を思い出し、売って小遣い銭を稼いだことを思い出した。雪折れの竹と、若い頃の世間知らずを重ね合わせ、根曲がり竹の話を聞いて壮年の同僚を思いだし、枯れ竹と自分の人生を重ね合わせもした。

 だが世間一般には、景を写すだけで、心のない作品も「詩」の範疇に入れられている。

@景を写して景と成る。観光案内の類である。

A情を述べる言葉は用いているが、実は景を述べているに過ぎない。悲憤慷慨喜怒哀楽の類である。

 これら@Aの作品と、心の発露を写した作品とは、基本的に姿勢が違うので、分けて扱うようにしている。

 

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