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詩を作る態度−私の場合 其之五TpPage

 漢詩と云うと、えらく難しい言葉で綴った詩歌と云う印象を持つが、私はそうは思わない。中國人が通常使う文字が漢字だから、伝言板に書くときも、手紙を書くときも、小学生の連絡帳も漢字で書くと云うことになる。

 当然の事ながら、日本なら漢字仮名交じりで書く俳句や短歌の詩歌の類も、中国人なら漢字で書く。俳句短歌が、小難しい事ばかり書いている訳ではないのと同じに、漢詩も小難しい事を書いている訳ではない。

 日本人の作品を見ると、往々にして回りくどく小難しい事を書いている作品に出会う。意味が判らぬので辞書を引くと、此が亦難しい説明が付いていて、作者に尋ねると得意然としている。

 こういう作品を「文字におんぶした作品」云う。私は自分の身の丈の作品を好しとしているので、あんたはそんなに偉いのか!と云いたくなる。

 日本人の作品には、文字におんぶした作品が実に多い。典型として矢鱈に典古を入れる人が居る。典古を入れるには、入れるだけの土台が必要で、典古を取り除いたら、只のガラクタに成って仕舞うようでは、おんぶしていると云わざるをえない。

 嘗て日本漢詩界の大御所が、当用漢字だけで漢詩を創った!と絶賛された。だが中國古典の代表格「論語」は千五百二十字の文字で綴られ、四百字の文字が有れば、九割強の文は表記できると云われている。日本の漢詩作家が、当用漢字二千八百字で綴ったと云う事にそれ程の意義が有るであろうか?意義と言えば、当用漢字二千八百字もの文字を使って、ようやっと作った!と言い換えるべきだろう。

 詩歌の本質は、平易にして人の心を擽る事に有る。

 

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