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漢俳考 01 漢俳発祥の経緯とその後TpPage

お断り
 漢俳は俳句との関わりが言われているので、俳句関連の諸賢も閲覧される機会が有ると思われます。編者は俳句の詩法を知りません。依って本稿の解説は漢詩詞の一類としての解説で、俳句との関連については、一切の考慮をしておりません。

前書き

 物事を解説するには、相手の基準に合わせなければならない。文学愛好者に技術系の話をしても興味を示さぬ儘、耳を素通りして仕舞うだろう。

 さて前置きはこれくらいにして、俳句を中国人に話すにはどうするか?前述の技術屋と文学愛好者の対比と同じで、俳句愛好者なら常識でも、相手を換えれば常識ではないのだ。
 俳句愛好者が異文化の漢詩詞圏、漢詩詞愛好者に話すのだから、先方様、即ち漢詩詞に基準を合わせなければならない。

 メートル法のメジャーで仕事をしている所へ、尺間の物差しを持ち込んで、あれこれ述べても、どうにも成らぬのと同じだ。尺間をメートルに合わせるのなら、尺間に換算目盛りを付けて対応しなければならない。

 昨今の漢詩詞と俳句の交流の現状に鑑み、漢詩詞の詩法を基準にして俳句を解析した論考が欲しいのである。身辺に見あたらないので、専門外を承知で考察を試みた。

 お断り

 本稿は筆者が一千余通を超える中国詩友との手紙のやり取りの中から、便箋の端端から彼らの私意を読み、これらの私意に則って筆者が独断で纏めた。便箋の端端の謂謂は、印刷物によって公表されている文面と、随分と異なっている事が往々にして有る。物事の見方には、表も裏もあり、公も私も有り、一通りでは無い事を具に知った。

 この頃、中国詩歌と、日本詩歌との交流の橋梁として漢俳が俄かに脚光を浴びているが、そもそも漢俳とは如何なるものか、如何なる課程で成立したのか、漢俳は俳句の中国版なのか?など、成立の周囲から検討してみよう。
 此処に趙朴初先生の作品を紹介しよう。和風起漢俳。の漢俳の文字を取って、この様な五七五字の作品形式を「漢俳」と呼称したようだ。

 緑陰今雨来,山花枝接海花開。和風起漢俳。(開韵)

2007年4月11日来日した温家宝首相は、12日は国会に臨み皇居を訪問した後、夜の経済五団体主催の歓迎会に出席し、前夜ホテルで創ったという次の漢俳を、スピーチノ中で披露した。

   中国 温家宝
和風化細雨
桜花吐艶迎朋友
冬去春來早

其一
 漢俳の字義について、日本の「俳句」と言う名称へ追従して追称したと言う場合は、名称への追称で有るから、漢俳も名称であって、日本俳句と同義であると考えられる。註:俳句を字義に依って読むという人も居られようが、専家で無い限り、単なる名称として扱われている。

其の二
 漢俳の字義を調べれば、発議者が中国人であるから、中国語字典の字義を拠り所に、漢の文字は☆漢水 ☆朝代名 ☆男子 ☆漢族などがあり、俳の文字は☆古代雑戯 ☆滑稽戯 ☆也指演這種戯的 ☆諧謔 ☆玩笑。と成る。

 依って、漢俳を文字通りに読めば、漢字、或いは漢詩による“たわむれ”、と言える。勿論これは名称ではない。

其の三
 中国に於ける詩詞の地位は、中国人が屡々、「中国は詩の國である」言うように、職場、近隣、夫婦、家庭、小説など、諺、楹聯、詩、詞、曲、等の形で日常生活のあらゆる場面に登場し、語彙には精神に関わる言葉がとても多い事に気づく。この様に詩詞は、中国人の骨肉と相対する一翼としての精神を担っている。これは、日本の詩歌とは次元を異にする文化である。

 中国人は詩詞を教養の一環としており、家の出口や大形看板、祝儀などに楹聯がよく創られ、誕生や結婚、入学や就職、なにか有る度に数えればきりがないほど、詩詞の作品をよく創る。日本にも折り込み都々逸や折り込み川柳が有るが、漢俳も文字数と文字を織り込んだ、折り込み詩詞の類に入る。

其の四
 中国人の気質に触れてみよう。中国人の文化歴史に対する思い入れ、或いは尊厳は、日本人の想像を遙かに超えている。

 日本で詩歌を嗜む人は、趣味人或いは職業専門家であるが、中国では、職業専門家は存在しないし、趣味人だけのものではない。文字の読み書きが出来れば、精神の修養として誰でも詩詞は愛好する。これは孔子以来の伝統である。

 詩詞は中国人の精神を担う一翼であるから、俗と相対峙した関係を持ち、詩詞文化の権威者の多くが、詩詞を愛好するが故に、自己や家庭の経済益を犠牲にしている事実を、言い換えれば俗から離れている事を誇りとしている。

 相手に合わせると言う事は、一歩間違えば曲学阿世と誹られかねない。詩家の最も卑下する行為と成ってしまう。これに拘わる詩語が枚挙に遑がないほど多い事からも言える。

 この様な文化歴史の下に於いて、詩詞の権威者が、「相手に合わせて新たな詩形を提唱する」等と言う事は、とても考えられない。これは日常にも言える事で、滅多な事では相手に合わせると言う事はしない、と言うのが中国人一般の気性である。

其の五
 中国人がどれほど日本詩歌への認識を持っていたかに付いて言えば、日本人によって、漢字書きの日本詩形としての、曄歌・坤歌・瀛歌・偲歌などの新短詩が、提案され速やかに受容された事によって証明される。

 中国には以前より、日本詩歌の漢字書きを手掛けた者が居たのだが、未だ容認されては居なかった。だが中国側では既に日本詩歌を漢字書きにする手法を熟知していたので、日本側からの提案があった時に、速やかな受容が為されたのである。

 余談だが、中国人による日本詩歌の漢字書き手法が定型として受容されなかったのは、手法の認識とは別の要因が考えられる。即ち、同じ中国人で有れば、風土気質の弊害に依って提案並びに其の先の受容は困難を極め、偶々新短詩の提案者が外国人(日本人)が爲に可能で有ったといえる。

 以上五項目の考察によって、其一の漢俳の日本俳句追称説は排除され、「漢俳」とは日本俳句の追称ではなく、「漢字による戯れ」と理解される。

 中国側では、其の五に述べる通り、当初から漢俳と俳句は、名前は似てはいるが、中身が全く違う事は百も承知である。

 今から20年ほど前、日本俳壇と中国詩壇の交流会席上、趙朴初先生が日本俳壇への敬意を込めて“漢俳”を披露したと聞くが、其の三に述べる通り、其の時々の状況に応じて自己の心を顕す手段として詩詞を披露する事は、中国文人の日常茶飯で、殆どの文人は詩詞の創作を教養の一環としている。

 此の交流会の席上でも、趙朴初先生は日常的な一環として、文字数と漢と俳の文字を織り込んだ、日本で言うところの折り込み詩詞の如き、作品を披露したのである。其の四に述べる通り、「漢俳」は、単なる席上の余興であって、日本俳句と中国詩詞を連結させるための新たな詩形の提案ではないのある。

 折り込み作品を披露した人が、偶々著名人で有ったが爲と、日本側が反応を示したが爲に、普段ならその場で消えて無くなって仕舞う作品が、新たな生命を得て、今日の成長を見たのである。

 依って、漢俳が俳句と相互翻訳の出来ない事は、当然の事だし、漢字の五七五と平仮名の五七五の云々を論じる事自体、無意味である。

 漢俳は文字数と文字を織り込んで、その場に合わせて歓迎用に作られた即興小令の一つで、日本俳句との共通性はない。強いて言えば、其の二に述べる通り、俳の字義、即ち諧謔玩笑滑稽戯で有ろうか。

 ただ歳月の経過と共に、いつの間にか、漢俳が呼称となってしまい、恰も漢俳と俳句が相通ずる詩形であるかのような、錯覚に陥っているふしがある。

 漢俳発祥の経緯は以上の如くであるが、その後日を追って独自な成長を遂げ、発祥の経緯とは関わりなく新生独自な詩形として、多くの詩家に依って様々な研究が為されている。

 

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