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第十三章 現代

 清以後現代と言えば、孫文の後毛沢東に依る中華人民共和国と言う事になり、日本では大正、昭和と云う時代である。
 大陸に於いては共産革命の当然の方策として歴史の否定による古典文化の否定、これに時を同じくして二十世紀初頭の文学革命で「古典文学の打倒と写実文学の建設」が叫ばれてから、口語文は文語文に取って代わった。
 そして更に文字も極度に簡略化が為され、日本で用いる漢字とは相当に異にするので、同一文字の使用とは云い難い状況であるが、これも文字教育の面から看れば、当然の方策と言えよう。
 然し政権の異なる台湾省に於いては旧漢字が用いられて居る。
 依って詩も次第に口語体の新詩が盛んに成ったが、皆無に成ったと云うのではなく大陸各地に詩詞社が有り、細々の様だが脈脈と続いている。
 日本に於いても大東亜戦争の敗戦に依って前者と似通った状況となって、漢詩は一時期顧みられなく成ったが、細々では有るが愛好者が居るという状況で、同好者の集まりである吟社として耳にするものは

黒潮吟社   主宰  高橋藍川  和歌山 創始者没
琢社     主宰  中村舒雲  東京  創始者没
山陽吟社   主宰  田中呂南  広島県 創始者太刀掛呂山氏没後に門弟が引き継ぐ
滄浪吟社   主宰  米澤葵堂  大阪  黒潮吟社創始者高橋藍川氏没後に門弟が創設
心聲社    主宰  服部承風  愛知県
二松詩文會  主宰  石川濯堂  東京
漢詩人社   主宰  進藤虚頼  東京
鳴鳴吟社   主宰  森崎蘭外
日中友好漢詩協会 会長 柳田聖山 京都市左京区
雅友吟社 代表 益田愛鄰 広島 山陽吟社創始者太刀掛呂山氏没後に門弟が創設
葛飾吟社   会長  芋川冬扇  埼玉  2008年01月 二代目会長に就任
           (創設者 中山逍雀は顧問に就任
            千葉県 高橋藍川氏・太刀掛呂山氏没後に門弟が創設)

等があり、この他に筆者の聞き漏れや会員が更に吟社を開いていると聞き及ぶのでこれよりは多いと思うが、独りの指導者が指導できる人数も自ずと限りが有るので、そう多くの愛好者が居るとは思えない。
 大陸の状況は詳しくは解らないが、詩よりも詞を好んで作ると云われ、廣東省廣洲市に廣洲詩社と言う詩社があり、旬刊で「詩詞」と言う出版物が有るので、其の中の作品も幾つか紹介しよう。

題画       日本 高橋藍川

林下茅廬属釣翁 溪聲禽語指呼中
 林下の茅廬釣翁に属し      渓聲禽語指呼の中

悠然占斷閑天地 竟向人間路不通
 悠然占断す閑天地        竟に人間に向かって路通ぜず

 林の中の茅葺きの庵は釣翁の住まいで有ろうか、谷川のせせらぎや小鳥の鳴き声が手の届く程身近かに聞こえる、ゆったりと占める此の静かな天地、遂に下界とは交通も途絶えて路が通じていない。

夜坐雜吟  日本 高橋藍川

浙瀝風聲送晩鐘 門前老樹暮烟封
 淅瀝たる風声晩鐘を送り     門前の老樹に暮烟は封ず

雲邊早見一匳月 寒影正懸江上峰
 雲辺早に見る一匳の月      寒影正に懸かる江上の峰

 淅瀝と物寂しく吹く風に乗って夕刻を告げる鐘の音が聞こえて來る。門前の秋に逢った樹は葉を色付かせて居るが、そこには夕方の靄が立ち篭めて居る。雲の辺では早くも一つの鐘のように丸い月が顔を覗かせて居る。其の寒々とした影は今正に江の上に聳え立つ峰に懸かって出ようとして居る。


有感示人   日本 高橋藍川
 感有りて人に示す

風流占断大乾坤 一旦擲抛斯道尊
 風流占断す大乾坤        一旦擲抛斯道の尊きを
 風流な詩道は大きな天地をも領有し得る物である。だがその道の尊さを忘れて仕舞ったかの如く、一朝に投げ出して仕舞うとは

底事吟宋無気慨 低頭拱手媚権門
 底事ぞ吟宗気慨無く 低頭拱手して権門に媚びるを
 其れはどうした事だろう。多くの吟社の宗師達のだらしなさに有るのでは
こまね
無かろうか、彼らはただ頭を下げ手を拱いて権勢ある人に媚び諂って居るからではないか。

訪玉邨翁    日本 太刀掛呂山

一謁清容情更濃 十年傾倒始相逢
 清容に一謁して情更に濃やかに 十年傾倒して始めて相逢う

聽詩問画恍移・ 日落白華山寺鐘
 詩を聴き画を問い恍として時を移せば、日は落つ白華山寺の鐘に

  清容 清楚成る容姿 傾倒深く心を寄せる
  聴詩問画 詩や画の事を聴き問う事 此の句法を互文と云い対句の一種

家        日本 太刀掛呂山 録山陽風雅

吾家生事太凄涼 環堵蕭然樹竹荒
 吾が屋の生事甚だ凄涼 環堵蕭然として樹竹荒る

老屋三間徒四壁 陳編満架且堆床
 老屋は三間 徒四壁のみ 陳編は棚に満ち且つ床にうず高し

青苔紅葉無人間 薄酒残肴有婦蔵
 青苔紅葉人の問う無きも 薄酒残肴婦の蔵する有り

一任終年窮鬼罵 個中安頓鼓吟腸
 さもあらば有れ 終年窮鬼の罵るは 個中に安頓して吟腸を鼓せん

自況       日本 太刀掛呂山
煎薬漫思生有涯 老来蠧簡眼纔遮
可憐痩損貧家菊 従過立冬初着花

霜朝散策   日本 太刀掛呂山
暁寒撫面稟霜花 曳杖穿林登隴斜
一種風情入冬好 路傍替菊嚢吾花

親鸞讃詠   日本 太刀掛呂山
九齢剃髪學天台 廿歳孜孜心骨摧
一宵六角堂中夢 導入空師念仏來

秋篠寺     日本 太刀掛呂山
雑樹擁林秋篠寺 平城古刹湛幽玄
吾生亦伍詩人未 來謁温柔技藝天

題書斎     日本 服部承風
一巻図書一現身 随時随所共相親
忽然得寵忽然失 也似内家叢裏人

  内家叢裏 宮殿内の宮人達 「身是三千第一名 内家叢裏独分明」

            時事偶感  日本 中村舒雲
方便一時同死生 百年岐路自分明
鴻溝難劃長城北 黒水今聞盪激聲
 ソ連と中国は同じ共産主義で、同一歩調を取り約盟して居ても、一時の方便に過ぎず結局は分離する事は必定だ。
 もう黒龍江辺りでは問題を起こしているではないか。
  鴻江 漢の高祖と楚の項羽が天下を二分した両国の境界 国境意味

 小説下谷の家の中に掲載されて居た作品 日本永井荷風
孤碑一片水之涯 重経斯文知此誰
今日遺孫空有涙 落花風冷夕陽時

艶体詩成払壁塵 竹西歌吹買青春
二分明月猶依舊 照此江湖落魄人
  二分明月 明月三分の二の意味 徐疑の「憶楊州」の詩に「蕭嬢瞼下難勝涙、桃葉眉頭易得愁。天下三分明月夜、二分無頼是楊州。」
 「天下の明月を三分したら、其の三分の二は花柳界を照らして居るとは面白くない」と云っている。

待春     日本 森鴎外
南廂偶坐悩沈吟 目送凍禽鳴出林
唯喜簾前風梢暖 待花心是待春心

題画竹   日本 小宮水心
淋漓墨気翆雲流 半壁清陰晝猶幽
三伏臥遊涼一枕 畫中風竹早生秋

忘却の記念の為に    中国 魯迅
慣于長夜過春時 挈婦将雛鬢有絲
 新春に成っても未だ夜は長く寒い。其れを眠れずに過ごす事が多い、妻子を引き連れて上海の租界に逃れての侘び住まいで、両鬢に白い髪が増えるばかり

夢裏依稀滋母涙 城頭變幻大王旗
 私の親しくして居た青年が殺された。殺された母親の涙がさながらに思いやられる。そして刑場の近くの城の上には、権力を象徴する国旗がはためいて居るのだ

忍看朋輩成新鬼 怒向刀叢覓小詩
 友人達が恨みを飲んで亡者と成るのを、じっと見ているのは忍びない。無性に腹が立って武力の弾圧に反対し、せめて拙い詩を作って鬱憤を晴らそうとした

吟罷低眉無写處 月光如水照緇衣
 然し小詩を吟じて仕舞っても、眉を垂れてしおしおする他はない。これを写して発表する場所も無いのだ、折しも月の光が水の様に冷たく私の黒い上着を照らしている。

前記魯迅の作品に次韻して 中国 郭抹若
又當投筆請纓時 別婦抛雛斷藕絲
 又当に筆を投じ纓を請うべき時なり 婦に別れ雛を抛って藕絲を斷つ

去國十年餘涙血 登舟三宿見旌旗
 國を去って十年涙血を餘し 舟に登って三宿旌旗を見る

欣将残骨埋諸夏 泣吐精誠賦此詩
 欣んで残骨を以て諸夏に埋めん 泣いて精誠を吐いて此の詩を賦す

四萬萬人斎蹈○ 同心同徳一戎衣
 四万萬人斎しく蹈励 同心同徳一戎衣

 内容も魯迅を継承すると共に、暗に其れに対抗する意図が込められて居り、郭抹若は魯迅よりずっと後輩だが、当時は論敵として批判者の立場に有った。 魯迅が「妻を挈へ雛を連れ」逃げ廻って居たのに対し、郭抹若は「婦に別れ雛を抛って」と云っている。
 郭抹若は国民党政府から睨まれ、逮捕命令が出され欠席裁判で死刑の宣告が下されたが、彼は日本人の妻と一緒に日本に亡命して、長く安穏に生活していた。
 昭和十二年蘆溝橋事件が起こると奮然として日本を脱出して、祖国の難に赴いた。
 同時に国民党政府の特赦に依って死刑を取り消され、その時に魯迅の詩に次韻した作品である。

廣洲詩社「詩詞」一九八七年より収録
飛往東京  中国 王越
竟上層霄把太清 茫茫東海海雲生
無端憶得詩仙句 我欲蓬莱頂上行

歓迎台湾老友歸來 中国安徽志中
東籬對菊喜重逢 問暖嘘寒若梦中
忘却巴山風雨夜 談笑指呼九州同

  巴山夜雨晩唐 夜雨寄北 李商隠参照

歌吟十三大同韻七絶 録二首
解放聲高好勢頭 吸収引進廣而憂
拿來主義非虚話 両個文明豁遠謀

商品経済尚富鐃 搾取貧渥着力愀
幹部青年是上策 官僚主義抜根鋤

山村吟   中国湖北 李鳴階
歓歌飛出小康家 昔日貧農今有車
大娉房添新彩電 小姑身着的綸紗
晨耕猶覚機聲揚 夜讀方嫌笑語譁
白髪村翁閑不在 愛尋野老話桑麻

賀白藤湖農民度暇村開業三周年 呂坪湖水秋色映雲天 玉宇涼樓矗岸前
度暇村中文有苑 白藤山外水無辺
金波閃爍含朝日 青靄迷濛隱夕烟
蒼海曾経多険浪 桑田拓就建芳園

香港旅游有感   香港 李君毅
一湾水沸百湾寒 一徑成名萬徑荒
獨悼扁舟西海去 未名灘上沐秋涼
 、一湾謂浅水湾、一徑謂麦里浩徑。 東海乃九龍半島乃東、西海在半島西。 西海游人少。

車過臨潼  陜西省 陳慶餘
驪山晩照関中景 峰火戯候江山傾
世人懐古應借鑑 莫學昔日誤國卿
中国人は現代語に依って作詩できるが、日本人には仲々厳しく、日本人が新しい言葉を使うと往々にして日本製漢語に陥り易い。
 そこで類例のような現在の中国の詩を讀んで其の言葉を頂けば、充分我々にも使用できる。
 日本国内の文献ばかりに頼って作詩をしていると、往々にして自分勝手な言葉を作りがちで、中国人に理解されない言葉を使って漢詩を作っても、其れは日本製英語で英文を綴るのと同様の事で、漢詩は「中国文化の延長上にある」との認識に立って居ない証拠である。
 なお和語の用い方に付いては基本篇に対応の仕方が述べられて居るが、先ず中国語で該当の言葉があるかどうかを捜し、有れば其れに依り、無い場合は注を付けて用いれば良いと言われている。
 また間違いを侵さない為にも、国内の文献(始んどが古典か古典を拠り所にして作られた現代の作品)ばかりに頼らず、大陸の紙面に直接手を触れる様心掛けるべきで有る。
 亦漢和辞典の他に中国本土で発行された、中国人の為の国語辞典を座右に置いて、漢和辞典の意味と中国の其れとの違いを確認すると良い。

 

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