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第二講
1−4 詩歌の創作
 作品の創作には、精神的な作業と肉体的な作業がある。作詩指導書を読むと、その殆どが“韻”をどうしろ!“平仄”をどうしろ!と事細かにかかれている。型式も疎かに出来ない要素ではあるが、もっと大切なものに“中身”が有る。如何に見栄えがよい饅頭でも、中のあんこが不味くては食えたものではない。
 即ち作品の要旨は、“作者の心の思い”にある。それは自分で心を鍛錬する以外に方法はない。写真は誰が写してもほぼ同じものが出来る。でも看るに耐えない写真にも成れば、心を躍らせる写真もできる。その行き着くところは、撮影者にたぎる思いがあるかないかの違いである。
 多少皮の出来が悪くてもあんこが美味しければ美味しい饅頭だし、皮が好くできていても、中身のあんこが不味ければ矢張り不味い饅頭である。
 詩詞の創作を女性を着飾ることに例えれば、どんな着物を着せようか?どんな化粧をしようか?どんなアクセサリーを持たせようか?これら身につけるものは言葉である。どんな良い持ち物を身につけていても、マネキンはやはりマネキン、生身の人はやはり生身、である。
 創作者は、山を看て川を看て詩を作るのではない!自分の思いを表現するために「山を使おう川を使おう」とするので、一般の鑑賞者の見る立場とは全く逆である。

2 要素 
2−1 詩語
 詩に用いる言葉を詩語という。日本の詩歌であっても意味が通じればどんな言葉を用いても詩歌になるかといえばそうではない。矢張り不味い言葉と聞こえよい言葉がある。中国人ならば生まれながらの感性として理解できるのであるが、日本人には無理である。耳を持たない日本人は“詩語集積”のたぐいを頼りにするしかない。
 日本に出回っている詩語集積のたぐいは、古典詩歌から集積したものが殆どだから、古くさくて現代の世相を写すには物足りない!尤もな話ではあるが、人そのものは千年前とさほど変わっていないのだから、物の名前だけを追加補充すれば事足りる。
 詩語集積を用いずに漢和辞典を用いて作詩する人がいるが、漢和辞典は雑多な言葉の集積であるから、耳を持たない日本人には評価されても、耳を持つ中国人に相当の評価を得ることが出来るかは疑問である。外見上稚拙の感を否めないが、矢張り“詩語集積”を用いることが賢明な方法で、此を用いている限りは、日本での評価と中国での評価は同じになる。日本人が漢詩を作ることは、中国詩歌を作ることであるから、どんなに日本人に評価されても中国人に評価されなければ価値がない。
                             
2−2 韻
 “韻”とは日本人には聞き慣れない言葉であるが、中国詩歌では韻を用いる(押韻)するかどうかが、詩と散文の分かれ目である。韻とは文字の“母音”を云う。たとえば「車」と云う字はche 「歌」と云う字はge 「遮」と云う字はzhe 「蛇」と云う字はshe と発音する。子音は四者異なるが母音は“e”である。幾多の詩語の母音を古典韻(平水韻)では30種類に分類し、現代では18種類に分類している。
 即ち文字には総て“韻”が有る。詩歌で押韻すると云うことは二つ以上の句に同一の韻を用いることを“押韻”と云い、押韻することによって、文ではなく“詩”と成る。
 時代の変遷に伴って発音も違ってきているのだから、当然の事ながら古典の韻は時勢に合わなくなってきている。現代韻を用いるべきだ!尤もな話ではあるが、ここに一考を要す。中国は領域が廣く、文字は統一されているが発音は統一されていない。言い回しも多少異なる。一応北京語が標準語とされているようだが、そのほかに福建・上海・広東などが云われている。上海の人にしてみれば、古典平水韻も地元の発音と異なるが、現代北京語を基準に編集された現代韻も地元の発音とは異なる。このような現状から筆者には断を下すことは出来ない。

2−3 平仄
 中国の発音は子音(声母)+母音(韻母)+アクセント(声調) の三つの要素から成り立っていて、
第一声調 陰平
第二声調 陽平
第三声調 仄声
第四声調 仄声
と云い、第一第二声調を平声、第三第四声調を仄声と云う。
 詩歌は朗誦若しくは詠うことを前提にしているので、メロデイに重きを置き、平声と仄声の組み合わせを重視する。

2−4 音歩
 詩詞には言葉を組み合わせる上での規則がある。これを“音歩”と云う。即ち
3文字句は1+2 人易老
       2+1 明窓下
4文字句は2+2
       3+1
5文字句は2+1+2
       2+2+1
6文字句は2+2+2
7文字句は2+2+1+2
       2+2+2+1
9文字句は5+4
       4+5

2−5 孤平
 日本の漢詩解説書に屡々登場する語句であるが、誤った著述も多い。
 孤平とは「一句の中で韻文字を除いたほかに平韻の文字が一個しかない」状態を云う。
 言い換えれば押韻句の場合は通算二個以下を云い、押韻しない句の場合は、下三連不可の決まりがあるので、矢張り二個以下とも言える。

2−6 同字重出
 日本の漢詩解説書に屡々登場する語句であるが、誤った著述も多い。
 同字重出とは、言葉自体が違っていて、「同義重出」と云う。
 一首の中で同義の文字を二度使っては成らないと云う規定で、看見や聴聞などもこれに当たる。

2−7 拗救
 新体定型詩は厳格な平仄配列が規定されている。然しながら実際問題としては、これを全部クリアーして作詩することは困難である。この規格から外れたことを“拗”(ヨウねじれる)と云い、これを救うことを“拗救”と云う。
これには二つの方法があり
1:同一句の中で救う。もし仄文字のところを平文字にして仕舞った場合、仄が減って平が増えたから、ほかの平の文字を仄の文字と入れ替え、全体として平仄規定の文字数とすること。
2:前の例でもしその句の中で処理できなかった場合は、次の句若しくは手前の句で処理すし二句を通算して規定通りの平仄の文字数に合わせること。

2−8 下三聯不可
 詩句の下からの3文字が、全部平文字かあるいは仄文字に成っては成らないと云う規定。
五言なら2+3 の3の部分  七言なら4+3 の3の部分を云います  
 耳を持たない日本人には理解できない事柄だが、発音するときに不都合となるそうだ。

2−9 風雅交際
イ 漢詩創作者を「詩家」と呼び、風雅を自称して“雅号”が有る。詩家は「詩号」と云い、これは自分で気に入った言葉を選んで付ける。師匠に戴くというような無粋な真似はしない。
ロ 作品を提示するようになったら先ず雅号を決めよう。自分では何ら不自由はないが相手の事を考えたら付けておくことが親切である。
ハ 手紙を出すときには、相手の雅号が分かっていれば相手に対しては雅号を使う。自分はあくまで本名を使う。相手を雅号、自分は本名を名乗ることは礼儀である。だから詩家は自分で自分の雅号を書く機会はない。
  自分から雅号を名乗る人がいるが(この事は詩家に対する事で、ほかの書家や吟詠家のことは知らない)基本的には礼に失すると言える。
ニ 揮毫作品を贈る場合は、作品そのもののやりとりなら構わないが、詩歌作品にも意義がある場合は必ず平易な書き方で(今はワープロ打ちが多い)書いた詩箋を添えること。
ホ 何れにせよ住所氏名は揮毫作品とは別に平易明瞭に記載しなければならない。これは相手に対する礼儀である。
ヘ 師弟の関係は、どんな人に対してもでも「師」として対応する。「詩歌」は全人格的な事柄であるから、自分が「師」で有ることなどあり得ないと共に、相手が「弟」で有ることなどあり得ない。
ト 前項の風雅交際の項目は国際的な決まり事であるが、更に国際間の交流にはそれなりの注意点がある。基本的に日本人諸子の“常識”は日本人だけの通用概念で、他国に通用するとは限らない。メートル目盛りの物差しでインチ規格の物を測るのと同じで、メートルではピッチリしていてもインチでは半端でどうにも成らぬ場合がある。
 詩歌は文字数が少ない代わりに読者の解釈が入り込む余地が大きく、解釈に天と地ほどの開きが出ることは決して珍しいことではない。人物や世相を題材とする場合は、もともと日本と違う評価をしている場合は多々あるので、決して故意では無くとも思わぬ判断をされる場合があるので殊に注意を要す。
第二講 逍雀記 
 これで基本的なことは終了した。
 この後はパズル宜しく文字を当てはめて行けばよいだけのこと!
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