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剽窃
 漢詩の創作を学ぼうとする人の多くが、詩歌の何たるかを余り理解していない。
 「詩は志を言う」と言う言葉を金科玉条に、天下国家を論じなければならないのかと思っている人が実に多い。
 「志」と言う文字に惑わされている結果だろう。日本人の言う意味とは大いに異なる。平易に言えば「胸の内」と訳した方が当を得ていよう。
 そう言われれば日本の既存詩歌と何も変わることはない。ただ漢字で書くだけの違いである。だが俳句など短詩形式と比べれば、手法は天地ほどの違いがある。
 だがこれを述べよと言われても一概に述べられる事柄でもない。其れには俳句創作者と漢詩創作者が膝を交えて研究討論し、その場に立ち会って双方を見聞きする以外に方法はあるまい。
 漢字が並んで居るだけで恐れ入ってしまう人が多いようだが、漢字が並んでいても上手とは限らない。でも上手下手以前の問題がある。人の作品を真似る。このごろ権利が認められてきた「著作権」で、これを真似ると侵害になる。昔の作品を真似ても咎められることはないが、自分の名誉に傷が付く。盲目千人でも目明き一人に心しなければ成るまい。剽窃は恥である。でも漢詩の道はこういう場合にも道は開けている。借用したことを何処何処から借用したと題に書けば大手を振って通用する。誹りを受けることはない。また前作より上手く作れば評価もされる。
 藤井竹外と荻生徂來の作品には、借用したとの断り書きは何処にも見あたらない。独創の詩として発表されている。

寥落古行宮,  宮花寂寞紅。   白頭宮女在,  闕ソ説玄宗。  安宮     元?
古陵松柏吼天?,山寺尋春春寂寥。 眉雪老僧時輟掃,落花深処説南朝。吉野懐古   藤井竹外

 この様に並べられると、素人にも一目瞭然。場所と登場人物を入れ替えただけだ。 寥落と松柏吼天?は同じ状況表現だ。更に中国では墓に槇柏の木を植えるそうだが、日本にはそんな習慣はない。余計な借り物までしてしまった。古行宮とは行幸の時の仮宮、古陵とは高貴な人の墓。宮花寂寞紅とは春ではあるが寂しい景色。山寺尋春春寂寥も春の寂しい景色、あちらは紅と言い、こちらは春と言う。 あちらは白頭宮女なのに此方は眉の白いお坊さん。あちらが説玄宗と言えば此方は説南朝と言う。
 がっかりついでにもう一首紹介しよう。此では余りにも酷すぎる。

日長風暖柳青々,此雁帰飛入杳冥。岳陽城上聞吹笛,能使春心満洞庭。  西亭春望   賈至
 荻生徂來は漢学者として有名な人物だし、藤井竹外は詩家として有名な人物である。この人をして此の有様なのだから、漢字が並んでいるだけで恐れ入って仕舞う様なことは止めて欲しい。
 話を元に戻そう。自分の胸の内を述べるには、自分で何かを思わなければならない。自分の胸に秘めるには、自分で自分の心を探る事が出来るように鍛錬しなければ成るまい。多くの書を読み多くの話を聞き胸の中を一杯にすることだ。「詩嚢が一杯になる」と言う言葉があるが、詩歌に用いる言葉を沢山暗記したことではない。募る思いを一杯にしたという意味。
一点君山破浪青,千帆如鳥接冥冥。知誰倚酔城楼上,能使雄心満洞庭。  寄題江州城楼 荻生徂來

夢物語 吉野二首
 漢詩は現在・過去・未来・此処・彼の地・我・君、何でも詠うことが出来る。
 だがそれに其れ相当の手法がある。

吉野懐古     梁川星巖
今來古往事茫茫,石馬無声抔土荒。春入桜花満山白,南朝天子御魂香。

 この詩には幾つかの欠点があり、その一つは承句である。
 この句だけで、作者は現地を見ずに、多分炬燵の中で猫をじゃらしながら作ったであろう事が、直ぐにばれてしまう。
 全体の感覚として、この詩は足が地に着いていない、絵空事と言う感じを一読して受ける。そして承句は全くの借り物で、陵墓に石馬が有るのを、中国のどこかの写真で見たことがあるが、日本の陵墓に石馬が有るのを聞いたことがない。
 石馬を入れる方法には幾つか有り、入れ子を作る方法だが、これは仲仲のテクニックを必要とするが、簡単な方法として、夢で見たと言うようにすれば、夢の中なので理屈に合わなくても差し支えない。勿論此の作品には構成上宜しくない点もある。
 一例として承句に転句を入れて春入桜花抔土荒とすると、「桜の花は昔から陵墓を見守り、春には花を咲かせてくれるのに、人は陵墓を荒らす(時代の変遷)」となる。新たに転句を作ればよい。

吉野  河野鉄兜
山禽叫断夜寥寥,無限春風恨未銷。露臥延元陵下月,満身花影夢南朝。

 鉄兜とは随分と頑丈そうな作者を連想させるが、これは差しつ差されつ歴史話をぶち挙げながら作ったのか、酔いが回ってさっぱり地に足が付いていません。
 転句が絵空事に成っています。月が出ているのだから多分夜でしょう。桜の花が満開だから花見時でしょう(満身の花影)陵墓の前で仰向けに寝て月を見ていれば、酔っぱらいと間違えられて、守衛に摘み出されますよ! 
 詩歌は上手下手を問はず作者の心がこもっていれば、一読して読者の心を捉えるものです。だが此処に掲載した二首には其れがありません。
 だから炬燵の中で作ったんだろう!一杯やりながら作ったんだろう!と言われるのです。心からほとばしり出てもので有れば、作者も地に足が付いていますし、勿論作品も地に足が付いています。
 創作者に一言、自分の体験したことで、胸から迸る感情、これを題材にしよう。
 誰だって生きているのだから、誰でもあれこれ経験している。これを見過ごすか、心に留めるか、其れは総てその人の心の鍛錬による。
 題材と構成は精神の作業、言葉選びは物理的作業。
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