ma-ko-ue05.htm   填詞詩余楹聯  此方からも探せます

添削の一例
 編者が作詩を始めて数年後の作品。当時としては上出来の作品と思っていたが、年月が過ぎれば、矢張り拙いところが続出。添削を試みよう。
 @村居階砌雨晴時,A紫散紅飛芳草滋。B枝上猶余花数点,C緑風一陣遂難支。
 この詩の意味は、村住まいの庭先の石畳のあたり、丁度雨が上がって、晩春の頃なのか、花が散って其処には青々とした草が生い茂る。ふと木の上を見上げると未だ幾つかの花が枝先に残っている。
然し新緑の風が一度吹けば其れも落ちてしまう。
 晩春の景を詠った詩であるが、興(物を借りで情を写す)の手法。年齢を重ねた現在の心境を詠う。@A句で暮春の景、人生の晩年に当てはめる。「紫散紅飛」散り去る者と「芳草滋」生まれ出る者の対比。
 「枝上猶余花数点」未だ枝の上には頑張っている花が幾つか、未だ現役で頑張っている人が数人。でも時の移り変わりには抗しきれないと結ぶ。
 この詩の結句は適当な余白もあり、程々に纏まってはいるが、却って小さすぎる印象を受ける。その原因を追及してみよう。
 @句からA句へと続き、B句はA句から完全には離れては居ない。此処にその原因がある。
 B句を替えれば良いのだが、B句を替えればC句も替えねば成らず、折角連携の良いBC句を替えるのは良策ではない。紫散紅飛の句を用いて去り行く者を表現しなくとも、BC句で充分に去り行く者は表現している。
 A句はB句と「花」に於いて繋がりがあるので、これを断ち切る意味で、A句を入れ替えることとしよう。
 「脚下新泥芳草滋」足下の土には草が生き生きとしている、と入れ替えてみよう。
 @村居階砌雨晴時,A脚下新泥芳草滋。B枝上猶余花数点,C緑風一陣遂難支。
 この様に「脚下新泥」の四字を入れ替えることによって、重複を解消でき大分改良される。
 こうすれば、「自分の足下には新しい息吹が育って居る」と成ってAとB句は離れ添削前の作品よりずっと深みのある作品となった。
 漢詩創作で上達しない人の特徴は、添削者の言葉を鵜呑みにする人である。添削者の意見も亦、たた単に一つの私見であるから、其れは其れとして、自分の方策を探さなければ成らない。

作品考察
 海南行  細川頼之
人生五十愧無功,花木春過夏已中。
満室青蠅掃難去,起尋禅榻臥清風。
 他人の作品に筆を入れることは、著作権の侵害になるので、注意を要すが、死後50年を経ているので咎められることも無かろう。
 此れは吟詠結社のテキストに掲載されている作品である。一読して意味が解らぬではないが 、詩歌としては何分難点がある。詩は詠嘆が前提だから、意味が通じればよいと言う事でもない。
 先ず詩題から「行」の題字は楽府題の「行」である。楽府題については参考書に書かれているから、そちらで確かめて欲しい。
 先ず筆を入れるには、程々にしないと切りがないので、最小限此処だけはと言う箇所を探し出し、筆を入れることが肝要である。多少拙いところがあっても見逃すことも方便である。
 起句に「愧」の文字を配し、虚句で題意を提起し、承句は起句の延長線上にあるべき原則に反し、延長線上にはない。互いに別々で離れすぎている。
 転句と結句の関係は、「結句は転句の延長線上で、然も承句と繋がりを保つ」原則からは外れては居ない。 以上の考察から、承転結の三句は大過無く纏まっていて云々はない。
 そもそもこの詩は「人生五十歳になっても大した事もできなかった。利権に群がる取り巻きもうるさいので、そろそろ隠居でもしようか」と言う趣旨であろう。この詩の主意は「人生五十愧無功」で、「起尋禅榻臥清風」は趣旨を提起するための補足句である。
 作詩の上で注意することは、結句が主意にへばり付かない様にすることだが、「起尋禅榻臥清風」の句は主意に程々の余白を差し挟んでいて、此の点は程良く免れたが、どうした事か、起句に主意(結論)を配した事がとても残念。「愧無功」は結論なのだから使っては成らない句で、もし「人生五十愧無功」を用いるなら、一句で主意を言い尽くし、他の句を必要としない。
 承句は結句との関係も良好なので、この句を変更することは得策ではない。承句を生かすために承句の基となる起句を逆提示すれば、「草堂窓下緑濛濛」と何の変哲もない句が出来た。
 「草堂窓下緑濛濛」と「人生五十愧無功」の句とは何の繋がりも無さそうだが、こんな平凡な句と差し替えても充分に趣旨は表現できる。 
 「草堂」は自分の活動しているところ、「窓下」は自分の身近なところを指し、「緑濛々」と次の世代が既に育っていることを暗に物語る。
草堂窓下緑濛濛,花木春過夏已中。
満室青蠅掃難去,起尋禅榻臥清風。
 一読して何の変哲もない詩だ!
窓の下は草ぼうぼう、花の盛りも過ぎて夏半ば。
家の中では蠅がうるさくて払いきれない、坊主にでも成って静かに過ごすか。
 二読すると、
身の回りでは若い世代が既に育って、もう私の時代は過ぎ去ったようだ。
利権を求めて群がる連中が離れてくれない、いい加減に俗世を離れてゆったりと過ごしたい。
 この詩では作者の年齢が記載されていない。詩の趣旨からすれば年齢はさしたる要件ではない。年齢を入れたければ、序文に書けばよいが、簡単な方法は作者の氏名の次に年齢を書き入れればよい。

 

賦比興
 詩経に述べられる詩の六義の中で叙述法としては賦比興の三っが挙げられている。
即ち、賦とはに見えた物事や心に映ること等の、ありのままの姿を描写する叙述法で有る。比とは、比較対象の事柄を描写して、本意を映し出す叙述法で有る。興とは、転嫁する対象の事柄を描写して、本意を映し出す叙事法である。
 賦比興の説明について、概ねどのテキストにもこの様な事が書かれていて、其れの説明は、出来上がった作品を読む立場からの説明で、創作者側からの論述を終ぞ目にした事が無い。
 これは当然の成りゆきで、萬分の一にも満たない創作者側からの論述をしても、徒労に帰すこと歴然としてしている。そこで本講では創作者側から考察してみよう。
 貴方は山川鬱々とした景色を見て
A 景色の中から己の胸の内に秘める心情を見い出すのですか?
B 己の胸の内に秘める心情を景色の中から見い出すのですか?
 AとBの設問は似ているようで有るが、実は全く違って居る。即ちAの設問は読者側からの見方で、Bの設問は創作者側からである。
 ですからBの設問では、景色に遭遇する以前に、己の胸の内に秘める心情が無ければなりません。著者がいつも云う所の、述べようとする心情が八割で、文字にする作業は2割だ!と云う所以です。
 創作者は、己の心情を養い整理することが第一義で、文字に表す事は第二義です。精巧なロボットに錦紗を着飾っても矢張りロボットで、痩せ衰えた身にボロを纏っても矢張り生身です。
 日本の漢詩創作者の作品に、無味乾燥で空虚な作品が多いのは、これを取り違えて、着せ替え人形の様な事をやって居るからでしょう。
 賦比興をフアッションに例えてみますと、賦は普段皆さんが身に付けている衣服で、比はお洒落着と云う所で、興は性別も老若も判らぬほど奇抜な衣裳でしょう。
 そして、山川草木春夏秋冬楽悲怒喜などは衣裳に相当します。ですから創作者は秋の景色を見て、秘めた心情に紅葉の山河と清流と悲哀の着物を着せて表現しようとするのです。
 創作者と読者とは丁度逆の立場で、創作者は己の心情に一枚一枚着物を着せ、読者は一枚一枚着物を脱がせ、中身を知ろうとするのです。
 表現の巧拙は有るにしても、作品は作者の人格そのもので、いつも読者と対峙しています。
 創作者側から読者諸氏に一言いわせて貰えば、いつもフアッションの話題ばかりでなく、中身の私と対峙して欲しいのです。
 鑑賞家の中には、作品に金科玉条の如き評価を与えて、作品に対する云々を不謹慎と封じ込めてしまう人が居る。例え賢人詩聖の作品であっても云々のない作品などあり得ない。
 其れは、人それぞれ物事の見方が違うから当然のことで、云々することは鑑賞の一要素でもある。 ましてや邦人では、淘汰を経ていない作品が殆どであるから、批評は有るのが当然である。
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