text03填詞詩余楹聯  此方からも探せます

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  第一章 詩経
  
 中国で最初に編纂された詩集は、孔子が編纂した詩経である。
 紀元前六世紀の孔子の時代に、現在に近いものに結集していたと言はれるが、其の最も古いものは紀元前十二世紀に遡る。
 古代の文化国家とされる周王朝が、西安付近に都していた全盛期から洛陽に移った衰退期に掛けての歌である。
 なお詩経以外にも「詩」ないしは「歌謡」が有ったことは疑いないが、然し確実な文献として存在し、文学的価値の高いものは専ら詩経のみで、詩経は四部に分けられるが、其の中の黄河流域諸国の民謡集であるところの「國風」は大部分が人民の中で歌はれて居たものである。
 他の「大雅」「小雅」「頌」は王室関係の歌で、宮廷内の知識人に依って作られ、周王朝創業を述べる「英雄叙事詩」があるのを除き、全て抒情詩であり純朴な内容である。
 詩の内容に依って大別すれば、風 雅 頌の三つに大別され、内容と編集された詩の編数は、
風ー國の様子の歌 百六十編
雅ー王室の歌 百五編
頌ー神楽歌 四十編
で有って、全編数は題しか残らないものを含めると三百十一編、歌のあるものは三百五編である。
 猶これらの修辞法は、
賦ー真っ直ぐ事柄を述べる
比ー単なる比喩
興ー主題を他の物事に置き換えて表現する比喩
の三っの形式に分類され、「風雅頌賦比興」合わせて詩の「六義」と云われている。
 孔子は紀元前五百五十二年から四百七十九年の人で、編纂に当たって重複を省き、「礼の義に叶うもの」三百五編を編纂したと云い、孔子が弟子達への教科として、又広く人類の教養として重視した事は、論語に屡婁あらわれる所である。
 「詩三百、一言を持って之を蔽へば、曰く思い邪なし」とは、詩の締は感情の純粋さに有るとし、「詩三百を誦すもこれを授けるに政を以て達ゆかず、四方の國に吏となりて專りにて対たうる能はずば、多かしと雖も亦奚を以てか為さんや」と、詩から摂取した教養が、実務家としての人格にも作用すると云っている。
 この事は何も古代人に限った事ではない、純粋な精神は何時の世にも大切な人格形成の要素である。

詩経國風  周南 桃夭
とうよう
桃之夭夭 灼灼其華 麻韻
 若々しい桃の木、艶艶した其の華(その様に美しい)

之子于歸 宜其室家 麻韻
 此の娘はお嫁に行ったら、旨く其の家庭に調和しよう

桃之夭夭 有賁其實 質韻
 若々しい桃の木、盛り上がった其の実(その様に充実した)

之子于歸 宜其家室 質韻
 此の娘はお嫁に行ったら、旨く家庭に調和しよう

桃之夭夭 其葉蓁蓁 眞韻
 若々しい桃の木、葉はふさふさ(その様に整った)

之子于歸 宜其家人 眞韻
 此の娘はお嫁に行ったら、家中の人と調和しよう
 詩経の第一巻、周南の巻に納められている歌、良き時代の幸福な女性の歌で、女性と花とは似つかわしいものだが、此の歌のヒロインは明るく華やかで、而かも健康な桃の花にふさわしい娘である。
若々しく青々と繁った桃の木に、今を盛りと咲き誇る桃の花に歌人は、花に重ねて娘に想いを馳せる、あの娘はもうお嫁入り、、、、。
 興と呼ばれる手法を用い、どの章も、韻に関係ない第一句と第三句は同じ文句を繰り返し、押韻をする第二句と第四句では一章毎に韻字を換え、其れに伴って文句に変化を付けている。

詩経國風 魏風 碩鼠
でっかいねずみ
碩鼠碩鼠 無食我黍 語韻
 でっかい鼠よでっかい鼠よ 俺の黍を喰うのはよしな

三歳貫女 莫我肯顧 遇韻
 三年お前に貢いでやったが 俺らを構う気持ちは無いんだね

逝将去女 適彼楽土 廬韻
 さあお前を見捨てるぞ そうして楽しい國へ逝くんだ

楽土楽土 奚得我所 語韻

ここ
 楽しい國よ楽しい國 奚こそ俺らの落ちつき場所

以下十六句省略 

 幸福な黄金時代は過ぎ去り、営々と働きながらも生活苦から解放されない人々は、自分達の苦しみを歌に託してそこに僅かな慰めを見いだした。
 而かも人民の鋭い眼は、自分達の苦しみの根元に迫る事があって、同じ魏風に属する「伐檀」の詩はその事を示している。
 歌い出しの碩鼠、巨大な鼠とは重税を取り立てる君主の事であり、農民の一年の血と汗の結晶である収穫物を、鼠が遠慮無く喰い散らかす様に、君主は年貢を取り立てる。

・ 古体は概して純朴な、荒削りの様に見られるが、かと云って疎雑の感が なく力強い作品が多い。
  今体は繊細な内容の作品が多いので、内容に依って詩形が定まり、詩形 に依って内容が定まる。
  作詩に着手する前に、お手本の詩の構造を調べる必要があり、古詩は韻 さえ踏めば良いのだ等と云うが、古詩でも歌である以上必ず平仄と韻を調 べ、どの様に成っているか、再確認の努力をしなければならない。
  茲に作品があるので作詩の参考にされたい。ソビエトが北方領土を占領 している事を歌っている。      (録黒潮集四十五巻一号)

碩鼠 現代の作品 今井適斎 豊中
碩鼠碩鼠 領我北岸 翰韻
既食我黍 胡玩核弾 翰寒韻
爆爆震霆 如何避難 翰韻
優心慇慇 念爲・悍 寒韻
碩鼠碩鼠 領我北巒 寒韻
既食我秬 胡玩核丸 寒韻
鑠鑠雲傘 如何謀安 寒韻
優心惨惨 嗟勢未殫 寒韻

藍川曰、詠出四言構想甚妙、烈烈言志局勢変換亦可聆也

・ ソビエトが北方四島を占領している事の風刺。

雅 文王
ぶんおう

文王在上 於昭于天
あきら
 文王は上に在まし ああ天に昭かなり

周雖舊邦 其命維新
 周は旧き邦なりと雖も 其の命は維れ新たなり

有周不顕 帝命不時
 有周は甚だ顕かなり 帝の命は甚だただしきなり

文王陟降 在帝左右
のぼ お
 文王は陟り降りて 帝の左右に在ます

齏齏文王 今聞不已
 努め励みし文王の 良き名はやまず

陳錫哉周 候文王孫子

 しき賜いて周を始めるは 候れ文王の孫

文王孫子 本支百世
 文王の孫 本支と百世

凡周之士 不顕亦世
すべ おのこ あらわ
 凡ての周の士は おおいに亦世に顕る
以下四十句省略

 大雅の一番最初に位置する一編、大雅は周王朝の祖先の伝説を語り、創業期の君主の功績を讃える叙事詩風のものである。
 中国は最初から抒情詩として発展しており、ギリシャやインドに見られる壮大な叙事詩はあまりない。
 周王室の栄を壽ぎ、亡国後の殷の人々の惨めな有り様を思い、現在の繁栄の基礎を築いた文王の偉大な人格を偲んで、殷を戒めとして文王の教えに従えば、周の國は万々歳だと諭す。(万歳の言葉は漢の時代が始めか?)

頌 閔予小子
    びんよしょうし

閔予小子 遭家不造
こわっぱ
 悲しきかな我小子よ 家の造らざるに遭いて

環環在疚 於乎皇考
ああ
 独りぽっちに病にあり 於乎父君よ

永世克孝 念茲皇祖
 永世に克く孝なり 茲に皇祖を念えば

陟降庭止 維予小子
 陟り降りて庭にあり 維れ我小子よ

夙夜敬止 於乎皇王
あさ ゆう つつし ああ おお きみ
 夙な夜なに敬む 於乎皇いなる王よ

繼序思不忘
 序を継ぎ思いて忘れざるなり

 周頌の一編である、父王の死後に新王が父王を霊廟に祭り、悲しみを新たにすると共に家国の継承を誓う歌。
親を失う事は、人生最大の悲哀とされ、其の為に親の死に関する物事を表現する事は厳重に忌まれる。
 親の死は文学的表現を与える事さえ、耐え難い悲しみで、従って妻や子、友人の死を嘆く詩は沢山有るが、親の死を嘆く詩は始んど無い。
 其ればかりか喪服中は、礼の規定により作詩を禁止され、例えば劉宋の詩人謝恵運は、父の喪中に詩を作った為に、罪に問はれ出世出来なかった。
 此の詩と、此の姉妹編とも云うべき「訪客」の詩などは極めて稀な例と云える。 (録中国古典選)


第二章 楚辞

 屈原及び、彼の門人追随者の詩集を楚辞と云い、詩経と同様に文学的古典として非常に尊重されている。
 屈原は文学者として中国史上最初に名を遺す人物で、伝記に曖昧な部分が多いけれども、紀元前三百四十年頃から、二百八十年前後まで生存した。
 当時は戦国の末期、秦の優勢が決定的に成りつつ有った時、屈原は秦の侵略に悩む楚国の貴族に生まれ、大臣となって国勢回復に心を砕いたが、親秦派の政敵のために失脚し、己の正義が世に容れられぬ苦悩を、厳しい調子の文学作品を通じて訴えた。
 最後には楚国の前途に絶望し、自殺したと云われるが、屈原の文学は現実に密着し、奔放で感情が激烈、且つ幻想に富みロマンチックである。
 楚国の民歌を発展させたと云う其の詩形は、詩経よりも遥かに複雑且つ多様で、中でも最大の傑作、「離騒」は、中国文学史上稀にみるスケールの雄大で、華麗絢爛たる長編の抒情詩である。

かいさ くつ げん
懐沙 屈原 
滔滔孟夏兮  草木莽莽
 盛んに盛ん成る孟夏     草木は生い茂る

傷懐永哀兮  泪徂南土
 傷み懐て永く哀しみ 急ぎて南の國へ行く

・兮杳杳   孔静幽黙
まばたき
 瞬きして見れども果てしなく 甚だ静かにして幽まり黙す

鬱結紆軫兮  離愍而長鞠
 欝がり結ぼれて屈まり傷み 愁いに係りて長く鞠まる

撫情功志兮  冤屈而自抑
 情に従い志しを調べ 無実に屈みて自ら抑う

・方以爲圜兮 常度未替
 四角なるを削りて円きと為すも 常の法は未だ替えず

易初本由兮  君子所鄙
 初めの因るところを換えるは 君子の卑しむ所なり

章畫志墨兮  前圖未改
 筋明きらかにするは墨をおもい 前の図は未だ改えず

内厚質正兮  大人所盛
 肉厚く質正しきは 大人の盛んとする所なり

巧垂不・兮  執察其揆正
 巧みなる錘も斬らずんば 誰かその正きを図るを知らん

玄文處幽兮  矇・謂之不章
くら 
玄らき模様を暗きに置けば 盲は之を模様に有らずと謂う

離婁微睇兮  瞽以爲無明
めなしびと
 離婁の少しくチラリと見れば 瞽は以て明かり無しと為す

變白以爲黒兮 到上以爲下
 白を変じて以て黒と為し 上を倒して以て下と為す

鳳皇在・兮  鶏鶩翔舞
 鳳皇は篭に有り 鶏と鶩とは翔り舞う

同糅玉石兮  一・而相量
 玉と石とを同じく混え 一つの升にて相量る

夫惟党人鄙固兮 羌不知余之處藏
そ こ いや
 夫れ惟れ党人の鄙しく意固持なるは ああ余の良き所を知らず

任重載盛兮  陥滞而不濟
おちい とどこお な
 任重く載せる事多きに 陥り滞りて済らず

懐瑾握瑜兮  窮不知處示
 玉を懐きて珠を握りて 窮して示す処を知らず

邑犬之羣吠兮 吠處怪也
 村の犬の群れして吠えるは 怪しむ処を吠えるなり

非俊疑傑兮  固庸態也
 俊を非として傑を疑うは 固より卑しき者の態なり

文質蔬内兮  衆不知余之異采
 文と質と内に疎なるに 衆は余の珍しき模様を知らず

材朴委積兮  莫知余之所有
 材は朴にして捨て積まれ 余の有する所なるを知る莫し

重任襲義兮  謹厚以爲豊
かさ きんこう ゆたか
 仁を重ね義を襲ね 謹厚を以て豊となす

重華不可・兮 執知余之従容
 重華逢うべからず 就れか余の従容たるを知らん

古固有不並兮 豈知其何故
 古も固より並ばざる有り 豈其の何の故かを知らん

湯禹久遠兮・ 而不可慕
 湯禹の久しく遠く 遥かにして慕うべからず

懲違改兮   抑心而自強
 過ちに懲り怒りを改め 心を抑え自ら強う

離・而不遷兮 願志之有像
かか のり
 憂いに罹りて移さず 志しの規あらん事を願う

進路北次兮  日昧昧其将暮
おぼろおぼろ
 路を進みて北に宿れば、日は昧昧と将に暮れんとす

舒優娯哀兮  限之以大故
 憂いを述べて哀めるを娯しみ これを限るに太古を以てす

亂曰
 返し歌に曰く

浩浩・湘   分流汨兮
 浩く浩き・の川湘の川は 流れを分かちて速し

脩路幽蔽   道遠忽兮
 長き路は隠れ蔽はれ 道は遠くして忽たり

懐質胞情   獨無匹兮
いだ たぐい
 質を懐き情を抱きて 独り類なし

伯楽既没   驥焉程兮
 伯楽既に没せて 驥も何処にか比べられん

萬民之生   各有所錯兮
 万民の生まれるや 各々安んずる所有り

定心廣志   余何畏懼兮
 心を定め志しを廣くすれば 余何おか畏れ恐れん

曽傷奚哀   永歡喟兮
 かさねて傷み茲に哀しみ 永く嘆息す

世溷濁    莫吾知
 四は濁りて 吾を知る無し

人心不可謂兮 知死不可譲
 人の心は謂うべからず 死を知るも譲るべからず

願勿愛兮   明告君子
 願はくば惜しむ無かれ 明らかに君主に告げん

吾将以爲類兮
 吾将に類を為さんとす

 本編は「史記」屈原伝に、自殺直前の絶筆として全編が引用され、「懐沙」とは砂や石等を懐中に入れて、投身する事を意味すると謂うのが通説である。
 「滔んに滔んなる孟夏」から、「冤に屈みて自ら抑う」、迄の十行はあてど無く放浪する屈原の旅路の光景から発想しつつ、追放された彼の限りない哀しみと怒りを歌う。
 「四角なるを以て円きと為すも」、から「羌予の藏き所を知らず」、までの二十二行は、所謂る「石の流れて木の葉の沈む」の出鱈目な世相、政治情勢、其れを横行させている政治家に対する、豊かな比喩による鋭い告発。
 「任重く載せること多きに」、から「遥かにして慕うべかからず」、迄の二十行は、屈原は繰り返して、自分が正しく生きているのにも係わらず、世に容れられない苦しみを訴える。
 「違いに懲りて忿を改め」から「これを限るに太古を以てす」、迄の八行は結論の部分で、自分の生き方を改めて決意しながら自殺を暗示して一応の結末とする。
 乱に曰く、から最後の二十二行は、丁度万葉集の長歌の後に付く反歌のように、一編の意味を短く要約した部分である。
 少しく鑑賞して見ると、若々しいエネルギーが世界全体に盛り上がるような初夏の候、草も木もボウボウと盛り上がっている
 此の生命の喜びに溢れた季節に背いて、私はただ独り、祖国の運命自己の境遇を傷み重い、尽きせぬ哀しみを抱き乍ら、追い立てられる様に、南の方の地方へ急いで行く。
 道路は大平原を貫いて走り、其の端を見極めようと、眼をしばたいて眺めても、万物はひっそりと潜まって物音一つしない沈黙の世界である。

・ 「辞賦」とは韻文が散文化したもの、其の源は「楚辞」に発したと考え られ、漢代は辞賦文学の時代であると言われるほど流行した。
  そして始め叙情的な辞から、叙事的な賦に発展して行き、一見散文らし く見えるが、辞賦は対句を好み押韻を用い、努めて華麗な文辞を敷き並べ た規模の大きな作品である。

 辞賦は韻文である事には違いないが、辞賦と詩とは古来明確に区別され、伝統的な分類では「文」に属している。
 「辞」とは元来楚辞の一体で、其の名称は屈原の「離騒」「九歌」「九章」の類を総称したもので「騒」と呼ばれた。
 其の作様は「楚辞」が南方的な文学であるから、叙情的、ロマン的、情熱的なもので、前漢、東方朔の「七諫」に、後漢、劉向の「九歎」王逸の「九思」等が、辞の典型的な作品である。
 辞賦の特質は詠物を主とし、問答体の形式を取る事があり、文中に押韻し、文末には楚辞にみられる「乱」の形を取る。
 然し辞賦の文学と云われながらも、大勢は「賦」が中心となり、「辞」は、傍系となって行き、其の中にあって漢の武帝の「秋風の辞」や、晋の陶淵明の「帰去来の辞」等の作品は有名である。
 「楚辞」とは屈原を始めとして、其れに倣った漢代の作家の作品を十七巻に纏めた作品体系である。
 一 離騒  屈原   二 九歌  屈原 三 天問 屈原
 四 九章  屈原 五 遠遊  屈原 六 卜居 屈原
七 漁夫  屈原 八 九弁  宋玉 九 招魂  宋玉
一0 大詔  景差 一一 惜誓  賈誼 一二 詔隠士 淮南小山
一三 七諫  東方朔 一四 哀時令 厳忌 一五 九懐  王褒
一六 九嘆  劉向 一七 九思  王逸


  第三章 漢

 漢の時代とは、前二百六年沛の人劉邦が秦を破って、漢の高祖として即位してから、二百十九年劉備が漢の中王と称し、関羽が敗死する迄の四百二十年あまりを云う。
 此の間に詩の面で登場する人物としては項籍や、彼のライバルで有った劉邦 劉徹 劉細君等がいる。
 亦詩としては文選に収められている古詩十九首、楽府古辞などがある。


三の一  項籍

 字を羽と云い項羽と称す、(前二三二ー二0二)丁度秦の衰退期の人物で、天才的な武将であって、劉邦と覇を争い秦を倒し、一時天下に号令したが政治能力を欠いたため、亦自分も劉邦に倒された。

史記項羽本記
 項王軍壁垓下 兵少食盡 漢軍乃諸候兵 圍之數重 夜聞漢軍四面皆楚歌 項王乃大驚曰 漢皆已得楚乎 是何楚人之多也 項王則夜起飲帳中 有美人名虞 常幸従 駿馬名騅 常騎之 於是項王乃悲歌慷慨 自爲詩曰
霄 霄
力抜山兮気蓋世 時不利兮騅不逝
歌 歌
騅不逝兮可奈何 虞兮虞兮奈若何
歌數・ 美人和之 項王涙數行下 左右皆泣 莫能仰視

・ 自分の政治能力の無い事を棚に上げて、事が旨く運ばないのは時勢のせ いだ、などと云っているが、日本人から看れば興味ある発想である。

 余り信憑性はないが、「楚漢春秋」にこの時の虞美人の作としてこんな詩がある、之が事実とすれば五言古詩最古の作品と成るそうだ。

翰 庚 紙 薬       陽 語 歌 庚
漢兵已略地 四方楚歌聲
秦 陽   末 軫   霰 薬 歌 可 庚
大王意気盡 賎妾何聊生
 漢兵既に地を収め 四方楚歌の声 大王の意気尽き 卑しき妾女は生を如何んせん


三の二 劉徹(漢武帝)

 漢の五代皇帝、本名は劉徹 其の治世は五十四年の長きに亙り、漢王朝の極盛期、中国古代帝国の頂点に達する時期で、現在我国の年号という制度が、此の時期に始まった事からも、帝の事業の偉大さが窺い知れる。
 武帝が黄河を東に渡って、地の神の祭を行った時に、汾河を渡る舟の中で群臣と宴会を催し、上機嫌で作ったと伝えられている詩。
 時に帝は四十二才、匈奴など四方の移民族えの度々の遠征に成功し、大規模な祭祀を帝国の各地で営むなど、華やかな時代で有ったが、一方では即位以来の積極政策の矛盾が増大し、国内が不安になって来た時代で、栄華を極めた皇帝にも、一筋の哀情が忍び寄るのを如何とも成し難かったに違いない。
 汾河は山西省を流れる黄河の支流で、此処に云う「秋風」とは、思いて叶わざる無き絶対君主に有りながら、而かも猶自己の力ではどう仕様も無い物の存在と、自己の力の限界をひしひしと自覚した武帝の悲哀を誘う物としての其れであろう。

・ 此処に雅会で良く行はれる「柏梁体」と云う作句法がある。
  これは漢詩の一体で、同一韻で各自一句ずつ作り、これを集め一首とす る詩法で、其の発祥は漢の武帝が柏梁台の落成した時に、群臣を集め此の 方法で作詩したと言われるが、この事が事実なら七言連句の最古となるが、 偽と云う説もある。

秋風辞録古詩十九首  劉徹
 秋風の辞

秋風起兮白雲飛 草木黄落兮雁南歸
 秋風起こりて白雲飛び 草木は黄ばみ落ちて雁は南へ帰る

蘭有秀兮菊有芳 懐佳人兮不能忘
 蘭に秀有り菊に芳有り 佳人を懐いて忘るる能はず

汎楼船兮濟汾河 横中流兮揚素波
 楼船を浮かべて汾河を渡り 中流を横切りて白波を揚げる

簫鼓鳴兮發棹歌 歓楽極兮哀情多
 簫と鼓を鳴らして棹歌は起こり 歓楽極まりて哀情多し

少壮幾時兮奈老何
 少なく盛んなる時は幾時ぞ老いを如何んせん


三の三 文選 古詩十九首 録二首

行行重行行
 行き行きて重ねて行き行く

行行重行行 與君生別離
 行き行きて重ねて行き行き 君と生きて別離たり

相去萬餘里 各在天一涯
 相去る事万余里 各々天の端にあり

道路阻且長 會面安可知
 道は険しくしてかつ長く 面を会はせるは安くにか知るべけんや

胡馬依北風 越鳥巣南枝
 胡の馬は北の風に従い 越の鳥は南の枝に巣くう

相去日已遠 衣帯日已緩
 相去る事日々に已に遠く 衣の帯は日々に已に緩む

浮雲蔽白日 遊子不顧返
 浮かべる雲は白日を隠し 遊子は帰る日を思わず

思君令人老 歳月忽已晩
 君を思えば人をして老いしめ 歳月は忽ち已に暮れぬ

棄捐勿復道 努力加餐飯
 捨てられし事は又云う勿れ 努力して喰う飯を加えん

 此の詩は遠く離れた人を思慕する歌で、誰が誰を思慕するかに付いて諸説有るが、前半八句は夫が故郷の妻を、後半八句は妻が旅先の夫を慕う、が分かり易い。
 故郷を離れて旅路をどんどん重ねていく、これは夫の現在の状況で、愛しい妻よこうしてお前と生き別れに成って仕舞った、何時の間にか俺は万里の遠く迄来て仕舞った、二人は大空の一方の端と端とに別れて住む様に成って仕舞ったのだ。
 お前の顔を二度と見られるかどうか分かるものか、北方砂漠の胡の地方で生まれた馬は、故郷から吹いて來る北風に出会うと其れに付いて行き、南方揚子江越の國からやってきた渡り鳥は、故郷を慕って必ず南の木の枝に巣を架けると云うのに、まして人間の俺に、故郷とそこに待って居て呉れるお前が恋しくない筈が有ろうか。
 同じ頃、夫の思いを知る由もない故郷に遺された妻は、便りも無い夫を慕い且つ怨んで歌う。
 貴方と私は日に日に遠く離れ行く一方で、悲しくやるせない思慕にさいなまれ、私はゲッソリ痩せて、着物も帯も日に日にだぶだぶに成って行く。
 空に浮かぶ雲がお天とう様を隠して仕舞うように、旅の空で貴方は何やらに気を取られて、私の事など思い出しても見ないと見え、一向に帰ろうともして呉れない。
ひたすら
 只管貴方の事を思い続けていると、其の思いが私をどんどん老けさせ、月日は何時の間にやらあっけなく過ぎ、もう年の暮れ、其れに貴方の消息さえ無いのは、きつと私は捨てられたのだわ、もうあんな薄情な人の事をとやかく云うのは止めにしましょう。
 無理矢理にでもご飯をどっさり戴いて、元気を取り戻すわ。

・ ご飯を沢山食べる、の表現は女性の励ましの言葉の様だ。
  史記巻四十九 外戚世家に「行け強いて飯してこれを努めよ」とある。
  金瓶梅にも此の記述がある。
・ 愁殺とは「愁」が主意で有って、「殺」は助字と云い、ある種のニュア ンスを与える語法で、「殺」の意味とはならない。
  一例を示せば、「却 著 着 住 断 罷 與」などが有り、更に「帽子 椅 子 孩子 凍殺」等も概ね此の類で、邦人は殊に注意を要す。

去者日以疎 録古詩十九首
 去りし者は日に以て疎とし

去者日以疎 生者日以親
 去りし者は日に以て疎とく 生ける者は日に以て親し

出郭門直視 但見丘與墳
 郭門を出て直ちに見れば ただ丘と墳とを見る

古墓犂爲田 松柏摧爲薪
 古き墓は犂かれて田となり 松と柏は砕かれて薪となる

白揚多悲風 簫簫愁殺人
 白揚には悲しき風多く 簫簫として人を愁い使む

思還古里閭 欲歸道無因
 古里の村へ帰るを思えど 帰らんとして道の因るべきなし


三の四 楽府古辞

 漢代頃の民歌を楽府古辞と云い、楽府とは漢代の役所の名で、武帝時代に設けられ宮廷の音楽を司り、演奏される歌の歌詞や民間歌謡を取り扱ったり、亦人民の声を採取しこれを政治の施策の参考にする為との目的で、行政の一環として積極的に行われていた様である。
 その後楽府の役所に集まった詩そのもの、亦は其れを模倣して作った詩も、楽府と云われる様になった。
 後世の模作と区別する為に、漢代の作を殊に古辞と云い、歌物語風な物や、情歌や死を嘆く叙情なものなど有るが、作者は判からない。
 
孤児行
 孤児の歌

孤児生 孤児遇生 命獨當苦
 孤児の生 孤児の生に逢うは 命の独り苦しきに当たる

父母在時 乗堅車 駕駟馬
 父母の在ませし時は 堅き車に乗り 駟の馬を駆けたり

父母已去 兄娉令我行賈
 父母已に去りてより 兄と兄嫁は我に行商を為さしむ

南到九江 東到斎與魯
 南は九江に到り 東は斎と魯に到る

臘月來歸 不敢自言苦
 師走に帰り來たれども 敢えて自ら苦しみを言わず

頭多蟻虱 面目多塵
 頭には虱多く 顔は塵おおし

大兄言弁飯 大娉言視馬
 上の兄は飯を作れと言い 上の兄嫁は馬の手入れをせよと云う

上高堂 行取殿下堂
 高き堂に登り 殿下の堂に行き趨る

孤児涙下如雨
 孤児の涙は流れて雨の如し

使我朝行汲 暮得水來歸
 我をして朝に水汲みに行か使め 暮れに水を得て帰り來る

手爲錯 足下無菲
 手はひび割れを成し 足の下に草履なし

愴愴履霜 中多・・
 愴愴と霜を踏めば 中には刺棘多し

抜断・・腸几中 愴欲悲
 抜け断えし棘は脹ら脛の肉の中にあり 傷みて悲しまんと欲す

涙下渫渫 清涕・・
 涙下る事ボロボロとし 清き鼻汁はボトボトと落つ

冬無復襦 夏無單衣
 冬には袷無く 夏には単衣なし

居生不楽 不如早去
 此の世に居りても楽しからず 早く去りぬに如かず

下従地下黄泉
 下の方地の下にて黄泉に従わん

春気動 草萌芽
 春の気は動き 草は芽をもやす

三月蠶桑 六月収瓜
 三月に蚕と桑の事をし 六月に瓜を収る

将是瓜車 來到還家 瓜車反覆
 此の瓜車を引きて 来たり到りて家に還りしに 瓜車の反覆る

助我者少 啗瓜者多
 我を助ける者は少なく 瓜を食らう者は多し

願還我蔕 兄與娉嚴
 願はくば我に蔕を返せ 兄と兄嫁は厳し

獨且急歸 當與校計
 独り且に急ぎ還れば 将にいざこざを起こすべし

乱曰
 返し歌に曰く

里中一何・ 願欲寄尺書
 村の中ひとえに何ぞ騒がし 願はくば尺の書を寄せて

将與地下父母 兄娉難與久居
 将に地下の父母に与えんと欲す 兄と兄嫁とは共に久しく居り難し

 古代の人々の強く明るく生きる姿の歌も多いが、人々の生活は元々幸福ばかりでは無く、苦しい暗い方面、虐げられ打ちひしがれた生活をする人々の方がはるかに多かった。
 楽府の歌には、その虐げられた人々の哀しみも歌い込められ、「孤児行」はその一つで、父母を失った少年が兄夫婦に虐待酷使される苦しみを歌う。

・ 封建的な大家族では、家長が強大な権力を振るい、家産は家長に集中す る為、兄弟で有っても家長の権勢の下に、不本意な生活を送らねばならぬ 事も多くあり、兄弟の関係は更に其処へ情と欲が絡むので、今も昔も中々 困難な問題で、小説の題材にも甚だ多い。

薤露歌
 韮の露の歌

薤上露 何易晞
 韮の上の露 何ぞ乾き易すきや

露晞明朝更復落 人死一去何時歸
 露は乾き明朝また落ちるに 人の死して一度去れば何時の日にか帰らん

蕎里曲
 蕎里の曲

蕎里誰家地 聚斂魂魄無賢愚
 蕎里は誰が家の地ぞ 魂魄を聚斂して賢愚なし

鬼伯一何相催促 人命不得少踟躇
 鬼伯はひとえに何ぞ催促すや 人の命は少しも躊躇うを得ず


    第四章 魏(魏蜀呉など三国)

 魏は西暦二百二十年から二百六十四年迄を云い、曹操は魏王朝の事実上の建国者、財産家では有るがまともでは無いと視られる家の息子だった曹操は、若い頃手の付けられない道楽者だったと言われるが、黄巾の乱を平定するのに功績があった。
 その後軍閥の割拠により混乱状態に陥ると、河北の袁紹などの軍閥を次々と倒し、最大の勢力になった。
 赤壁の乱に破れて、孫権が江南に、劉備が四川に独立するのを許したが漢の皇帝をロボットとして、事実上の主権者の地位にあって、後漢の皇帝を実力で圧迫し死後に息子の曹丕(文帝)が皇帝の位を奪う基盤を作った為に、小説「三国史演義」などで悪玉にされている。
 文学史上でも曹操は重要な役割を果たし、その一つとして楽府詩を知識人の抒情詩として作り始めた事で、これ以後の中国では、「賦」に代わって「詩」が文学の主流となり、其の状態は清末まで続く。
 此の時代に登場する人物は、曹操 曹操の子曹丕 曹丕の弟曹植 王粲 ・康(三国時代末期の哲学者 詩人阮籍と共に竹林の七賢と呼ばれる哲学者グループの指導的人物)などである。
 
幽憤詩 ・康
 幽憤の詩    けいこう

嗟余薄・ 少遭不造
 ああ余は幸薄く 少なくして造らざるにあう

哀・靡識 越在繦褓
 哀しみも憂いも知る無く 越えてねんねこに在り

母兄鞠育 有慈無威
 母と兄とに養われ 慈しみ有るのみにて厳しき事なし

恃愛肆姐 不訓不師
 愛を恃みて欲しい侭に甘え 訓しえ有らず師有らず

奚及冠帯 馮寵自放
 茲に冠を着け帯を締める歳に及び 寵を恃みて自ずから欲しい侭にす

抗心希古 任其所尚
たか
 心を抗くして古を希い願い 其の尚ぶ所に任す

託好老荘 賎物貴身
 好みを老荘に託し 物を賎しみ身を尊ぶ

志在守僕 養素全眞
 志しは僕を守にあり 素を養いて真を全くす

日余不敏 好善闇人
 これ余は敏からずして 善を好みて人に闇らかりき

子玉之敗 屡増惟塵
しばしば
 子玉の敗れるは 屡々惟塵を増す

大人含弘 藏垢懐恥
 大人は含む事弘く 垢を隠して恥を懐く

民之多癖 政不由已
 民の癖多くして 政の既に由らず

惟此褊心 顕明臧否
 惟この褊き心にて 善きと否とを顕かにす

感悟思愆 怛若創瘠
 気ずき悟りて慫を思えば 傷むこと傷と打ち身有るが如し

欲寡其過 謗義沸騰
 其の過ちを寡くせんと欲し 謗りは騰きかえり

性不傷物 頻致怨憎
 生まれつきて物の損なはざるに 頻りに怨み憎まれるを致く

昔慙柳恵 今愧孫登
 昔は柳恵に慙じ 今は孫登に慙ず

内負宿心 外忸良朋
 内は日頃の心に背き 外は良き朋に恥ず

仰慕嚴鄭 楽道閑居
 仰ぎて厳鄭を慕い 道を楽しみて閑居す

與世無營 神気晏如
 世と営む事無く 心は安らかなりき

咨予不淑 嬰累多虞
 ああ余は良からず 煩いに係わりて憂い多し

匪降自天 寔由頑疎
 天より降せるに非らず 誠に愚かに大まかなるに由る

理蔽患結 卒致囹圄
 理は蔽れ患は結ぼれ 遂に囹圄に居るを致せり

對荅鄙訊 ・此幽阻
 対い答えるに重ねて問はれるを鄙しみ 此の暗き阻に囚わる

實恥訟免 時不我與
 げに控えて免れるを恥ずれど 時は我と與にせず

雖日義直 神辱志沮
 道は直しと云うと雖も 神は辱められて志しは阻まる

・身滄浪 豈云能補
 身を滄浪に洗うも 豈に能く補うと云はんや

・・鳴雁 奮翼北遊
 ようようと鳴く雁は 翼を奮いて北に遊ぶ

順時而動 得意忘憂
 時に順いて動き 思いを得て憂いを忘る

嗟我噴歓 曾莫能儔
 嗚呼我の憤り嘆くこと 曾て能く等しき莫し

事與願違 遘茲奄留
 事と願いとは違い 茲に引き留められるに遭う

窮達有命 亦又何求
 窮おると達ぶるとは命にあり 又亦何おか求めん

古人有言 善莫近名
 古人も云える有り 善を成すも名に近ずく莫かれと

奉時恭黙 咎悔不生
つつ もく
 時に奉じて恭しみ黙すれば 悪しき事は起こらず

萬石周慎 安親保榮
 萬石は深く慎み 親を安んじて栄を保てり

世努粉紜 祇撹予情
 余の努めは粉紜して たまたま余の情を撹す

安楽必誡 乃終利貞
 安楽に居りては必ず戒むれば 乃ち和らぎ正しきに終わらん

煌煌霊芝 一年三秀
 煌煌しき霊芝は 一年に三たび秀ず

予獨何爲 有志不就
 予独りなに為れぞ 志し有りて就らず

懲難思復 心焉内疚
 難に懲りて復するを思えば 心は焉くんぞ内に病まん

庶勗将来 無馨無臭
 願はくば将来に勤めよ 馨無く臭い無し

采薇山阿 散髪巖岫
 薇を山の丘に摘み 髪を巖の嶺に散らさん

永嘯長吟 頤性養壽
 永く嘯き長く吟み 性を養い壽を養はん

 呂安の事件に巻き添えにされて、獄中に在って作られた詩「幽憤」とは、獄中に閉じ込められた事を憤る詩であると同時に、入獄の原因と対決して、其れが自己の性格の内部にある事を見いだし、従って憤りの対象は自己その物であり、憤りが閉ざされた自己の内部へ向かう事も意味する。

・ 元来中国人固有の発想の中には、罪を自己に回帰する、詰まり自責や懺 悔の観念は乏しい。
  曹植に「躬を責む」と云う詩が有るが、それは兄の曹丕に対する申し訳 に書いたと言う要素が強く、本心から自己の内面を追求して自己の行為に 対する自己の責任を尋ねて居るとは云い難い。
其の点、此の詩の八十六行に亙って徹底的に自己を見つめ、自己を解剖 し、今日の悲境の原因を自己の内に突き詰めて往く態度は、中国精神史上 希にみる所である。 (録中国古典選)


  第五章 晋(西晋 東晋)

 晋は西暦二百六十五年から四百二十年までを云い、茲に登場する人物として、張華 傳玄 陸機 潘岳 左思 石崇 劉・ 郭璞 陶淵明 などが居る。

歸園田居 陶淵明
 田舎の住まいに帰る

少無適俗韻 性本愛丘山
 少なきより俗に叶う調べなく 生まれついて丘と山を愛す

誤落塵網中 一去三十年
 誤って塵の網の中に落ち 一度去りてより三十年余りなり

羇鳥戀舊林 池魚思故淵
 旅の鳥は古き巣を思い 池の魚は古き淵を思う

開荒南野際 守拙歸園田
 あれたる南の野の際に開き 拙なきを守りて田舎に帰る

方宅十餘畝 草屋八九間
 四角なる屋敷の十余畝 草覆いの屋の八九間

楡柳蔭後檐 桃李羅堂前
 楡と柳は裏の軒端を覆い 桃と李とは座敷の前に連なる

曖曖遠人村 依依墟里煙
 曖曖と遠くの村はかすみ なよなよと村里の煙は上がる

狗吠深巷中 鶏鳴桑樹巓
 犬は奥まりし路地の中に吠え 鶏は桑の樹の頂に鳴く

戸庭無塵雑 虚室有餘閑
 前庭にはガラクタ無く 虚しき部屋には余れる暇有り

久在樊篭裏 復得返自然
 久しく鳥篭の裏に在しが 復自然に帰るを得たり

 陶淵明四十二才の時の作と推定され、其の前年東晋の安帝の義熈元年に、九江市の東方に在った彭沢県の県令と成ったが、在任八十日余りで突然辞任して、その後は絶対に仕官しなかったと言われる。
 貧乏で食えなく成っている所へ、叔父から勧められて県の公田からの上がりで酒が作れると聞いて赴任し、陶淵明は公田全部に酒米を植えようとしたが、妻の猛反対に遭い公田の六分の五に酒米を植え、残りは普通の米を作付けした。
 たまたま巡視官がやって来たとき、県令は公式の礼服を付けて対応する由を書記が教えると、「五斗米(僅かな給料)の為に俺の腰を折るのはいまいましい」と云つて辞任して仕舞ったと云う。

・ 此の逸話は、陶淵明が本質的に裕福だったから出来る事で、毎年餓死者 が出る当時の状況の中に在っては、知識人の気侭な振る舞いに過ぎない。
・ 此処で少し此の詩を読み返してみると、言葉の運びにとても調子の良い 所のある事に気付いた事と思う。
  この様な句は今迄に無かった訳では無いが、詩形も時代と共に洗練され 「唐」に成って新体詩という定型詩が出来ると、新体詩の中でも律詩は対 句を必須条件とし、前掲の詩句はこの「対句」(古詩にあっては対句は必 須の条件ではないので)の経過段階の句であると云える。

 前半四句と後半四句を除いた、五句目から十六句目までの十二句は互いに一定の関係を持った句と成って居るで有ろう事が、何となく感じられる。 
 「対」とは互いに相対するという意味で、これは「句」が或る関係を持って対する事で、内部の構成は発音の上で平に対して仄、文法の上では同じ関係にあり、句意に於いては反対の事柄を述べる物、違う方向から述べる物など様々である。
 対句は其の持ち前の調子の良さもあるが、句意表現の面にあって、二句の化合による効果が大きい。
 古詩に於いて此の点の理解は別として、如何に漢詩が長編に向いて居るとは云つても、矢張り余り長くなるとダラケるので、此の解決方の一つとして、対句は有効な手段である。

諸人共遊周家墓柏下 陶淵明
 皆と一緒に周家の墓の柏の木の下で遊ぶ

今日天気佳 清吹與鳴弾
 今日は天気良ければ 清き笛吹きと鳴る琴弾きとせん

感彼柏下人 安得不爲歓
 彼の柏の木の下の人に感じては 安んぞ歓びを為さざるを得ん

清歌散新聲 緑酒開芳顔
 清き歌は新しき節を撒き散らし 良い酒は芳顔を開く

未知明日事 余襟良已殫
 未だ明日の事を知らず 余が想いは良に既に尽きぬ

飲酒 陶淵明
 飲酒

結廬在人境 而無車馬喧
 庵を結び人の境にあり 而れども車馬の喧しき無し

問君何能爾 心遠地自偏
 君に問う何ぞ能くしかるや 心遠く地は田舎成ればなり

採菊東籬下 悠然見南山
 菊を取る東籬の下 悠然として南山を見る

山気日夕佳 飛鳥相與還
 山の気配は日暮れに佳く 飛ぶ鳥は相連れて帰る

此中有眞意 欲辯已忘言
 此の中に真の心有り 弁べんと欲して既に言葉を忘る

 飲酒とは酒を飲むこと自体ではなく、「酒を飲んでいる中での境地を表現した」事で、矢張り詠懐詩の系列に属す。
 此の詩は陶淵明の願望の世界では在っても、あの乱世に生きた彼の世界が、常にこの様な静寂に満たされて居たかどうか、例えば「車馬の喧しき無し」果たして何処まで事実だったか、史は隠者として名高い彼の為に、何度も宋の朝廷や州都の高官が使者を派遣して出史を命じ、高官自ら交際を求めた事も在ったと記す。
 そうした煩わしさの中で彼が求めた世界、其れこそが「悠然見南山」で発見した真の世界であろう。
だが読者をして彼にある種の誤解、偏向したイメージを作り上げた事は事実で、彼だって年中南山を見つめて居た訳でもなかろうし、矢張り余った菊は花屋へ売ったろうに。


  第六章  南北朝隋

 南北朝とは西暦四百二十年劉裕が晋を滅ぼして建てた宋王朝(後の趙氏の宋と区別して劉宋と称す)から、揚堅が隋を建てる西暦五百八十九年までを云う。
 その後隋の文帝在位二十四年、煬帝十二年を経て「唐」に至り、詩の開花期唐に至る直前の時代で、既に蕾は大きく成って、謝霊運 鮑照 謝・ 沈約江庵 痩肩吾 陳後主 斛律金 痩信 隋煬帝 などが上げられる。
 然しながら時代は年数という幅を持っており、人生にも幅が有るから晋代の人も多く此の時代に活躍して居るし、其の逆も可で、又唐代と此の時代との関係も同様である。
 此の時代を遡る事九百年近く詩経の作品と比べてみると、既に荒削りの態はなく、何処と無く繊細で構文にも種種の工夫が凝らされ、如何に大きな変化があったか伺いしれる。
 どの世界でも似たり依ったりだが、始めは荒削りで純朴さがあるが色々と工夫され繊細となり、唐代になって純朴と繊細が兼ね備わり、その後其れでは飽きたらず理屈っぽくなり、これでは不味いという人が出てきて懐古の風潮が現れ、何時の世も此の繰り返しで、試行錯誤しながら少しずつ進歩してゆく。

登池上樓 謝霊運
 池の上の楼に登る

潛虻媚幽姿 飛鴻響遠音
 潜める虻は隠れし姿を歓び 飛べる鴻は遠き鳴き声を響かす

薄霄愧雲浮 棲川作淵沈
 空に留まりて雲に浮かぶを恥 川に沈みて淵に沈むを恥ず

進徳智所拙 退耕力不在
 徳を進むるは智の拙なきにして 退きて耕すは力足りず

徇禄及窮海 臥病對空林
 禄に従い最果ての海に及び 病に臥して空しき林に対かう

衾枕昧節候 ・開暫窮臨
 衾と枕とは季節に疎く 掲げ開きて暫く伺い臨む

傾耳聆波瀾 挙目眺嶇崟
 耳を傾けて波を聞き 目を挙げて山の峙つを・む

初景革緒風 新陽改故陰
 初の景は緒風を改め 新しき陽の期は旧き蔭の期を改める

池塘生春草 園柳變鳴禽
 池の堤は春の草を生じ 園の柳は鳴く鳥を変う

祁祁傷・歌 萋萋感楚吟
 蓬摘む人の多くは・の歌に傷み 草の茂りたるは楚の歌に感ず

索居易永久 離羣難處心
 独り居るは永久なり易く 群れを離れては心おき難し

持操豈獨古 無悶微在吟
 操を守は豈ひとり古のみ成らんや 悶える無きの兆しは今にあり

 永嘉時代の作品の一つ、此の詩の舞台となった池は温州の西三里の所にあると言い、最果ての海辺にさすらう歌で余り段落がハッキリしないが、三段に分けられる様だ。
 前六句は龍や鳥、魚の姿を借りて現在の自己の状況に置き換え、自嘲と憤悶の想いを述べ、此の句法は詩経で云う「興」と云う表現法で、主題を他の事象に置き換えて表現する比喩である。
 続いて目の前の状況として、私は給料に釣られてこの最果ての海辺に辿り着いた、(勿論大富豪の謝霊運に取っては、想いも掛けず南の海辺に左遷された現実への自嘲で)其れだけでは不幸が未だ充分では無いかの様に、病にまで侵された私は人気の無い林に向かい合った此の部屋で寝ている。
 夜具をはおり枕を立てて引き篭もっていると、季節の移り変わりにもすっかり疎くなって仕舞う。
 其れで近頃自然の姿はどう成って居るかと病室のカーテンを引き上げて暫く外を眺めてみる。
 耳を傾けては池の面に立つ波の音に聞き入り、目を挙げてはゴツゴツした山を眺める。
 私が寝込んでいる間に、何時の間にか季節はすっかり変化して、新鮮な春の兆しは冬の名残の冷たい風に取って代わり、旧い陰気に代わって新生の陽の気だ。
 池の堤防にびっしり生えているのは春の草、庭園の柳の梢に鳴いている小鳥も春らしい種類に代わっている。
 此の句迄はまっすく事柄を述べる「賦」で、蓬を摘む人がその辺に沢山ゾロゾロ出てきているが、其の姿を見ていると蓬摘む春の女の悩みを歌った「風七月の歌」の一節が思い出さされ、片田舎にさまよう私の遠く離れた人々を懐かしむ気持ちは、あの蓬摘む娘の人恋しさと変わり無いのだと悲しむ。
 春の草が威勢良く繁るのを見ていると、春の草に帰らぬ貴公子を思った「楚辞」の「招隠子」の篇が連想され、茲にぐずぐずしている私を待つ人も有るのだと胸を掻きむしられる。
 私の身の上を考えると、親しい人々から別れた孤独な生活はどうも長く成りがちで、其れにつけても群れを離れた生活は耐え難い物だ。
 此の句迄は蓬摘む村娘を登場させ、其の姿と歌とを対比させ、単なる比喩として「比」の句法である。
 此の状況を嘆いてばかりは居られない、気を取り直して、それなら其れを逆手に取ってやろうと、思考の転回を計る。
 だが原則を堅く守って、清潔な生活を過ごすのは昔の人ばかりがする事だろうか、私だって其の位の事はやってみせる。
 易に「龍の様に素晴らしい徳を持って隠れた人は、世相につれて移り変わらず、名を求めず世を逃れて平静である」と云うが、そうした人物が今も存在すると云う証拠を、私は身を以て示すであろう。

勅勒歌 斛律金
 勅勒の歌

勅勒川 陰山下
 勅勒の平原は陰山の麓よ

天似・廬 篭蓋四野
 天は丸屋根みたいに 四方の原野に覆い蓋さる

天蒼蒼 野范范
 大空は青々 野はぼうぼうと

風吹草低見牛羊
 草はお辞儀をして牛や羊が顔を出す

・ 此の詩はトルコ語のリズムに忠実に訳されており、其のリズムはトルコ の歌謡と一致していると云う。
  また唐代に盛んになった七言絶句は、トルコ古歌謡の影響を受けたとも 云われ、すると此の詩は中国とトルコ族の隠れた文化交流を暗示するのか も知れない。


    第七章 唐

 中国の詩が、歌謡の次元から独立し、知識人の心情告白の文芸様式として完成したのは、漢末から魏に掛けての時代である。
 詩経を経る事三百年、屈原などの「楚辞」に至って初めて独白体の詩が生まれ、然し楚辞の形式はやがて漢代に入って「賦」と呼ばれる体となって栄え、韻文でありながら散文に近い性質を持つようになり、前漢と後漢を通じて、賦は代表的な韻文の形式として位置し、後漢の末、五言の形が歌謡から詩に取り入れられた時、茲に初めて狭義の「詩」が成立した。
 魏から晋南北朝隋と、即ち唐の帝国が成立する直前まで約四百年、詩と云えば五言詩であって、七言は二世期末には既に成立していたが、尚完成した詩形とは成らず、これの作者も少ない。
 五言詩の初期の代表作家は、魏の曹植で、彼は一面で民歌の叙情性を歌うのみ成らず、自己の内面を潜める態度の詩も取り入れて、阮籍や・康は曹植の後者の傾向を独自な形で発展させた。
 他の多くの詩人達は、前者の傾向を更に進め、技巧的な面での発展を見せ、此の二つの流れの上で南朝の謝霊運、謝・、などの優れた詩人が排出され、発達の絶頂に達したのは八世紀の半ば頃に当たる盛唐の時代で、これを中心とする前後三百年間の唐代こそは、将に詩の黄金時代とも云うべき時期であった。
 後代この唐代を文学的見地から、三期と四期に分ける二通りの分け方があり、三変とは唐の姚鉉の編「唐文粋」欧陽修の編「新唐書」に依る分類法で、四変とは宋の厳羽編「滄浪詩話」の議論であるところの「盛唐こそが絶頂で、これを祖述する事が望ましい」と提唱した事により、明初の高秉がこれをより強力に主張して「唐詩品彙」を編み、初唐盛唐中唐晩唐の四期に分類した。
 初唐は六一八年から七0九年 盛唐は七一0年から七六五年 中唐は七六六年から八三五年 晩唐は八三六年から九0六年迄を云う。
 唐の時代に此迄比較的自由な形式であった詩に、定型詩である「絶句」「律詩」などが新たな詩形として加わった。
 そして一般に此の時代に出来た定型詩を「新体詩」又は「近体詩」とと云い、唐以前から有った詩形を、唐よりも古いと言う意味で、「古詩」と云うように成った。
 依って古詩とは詩形の名称であって、古い時代の作品はこれを区別して「古辞」と云う。
 古詩に有っても全くの自由では無く、比較的自由と云う事で、応分の規約はあり、これを「古詩平仄法」と云う。
 なお五言律詩は、初唐の四傑と言われる、大勃 揚烱 廬照鄰 駱賓王などに依って完成されたとも云われている。


七の一  初唐

霊陰寺  五言排律 駱賓王
 霊陰寺

○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
鷲嶺欝・嶢 龍宮鎖寂寥
 鷲嶺欝として・暁 龍宮は鎖されて寂寥

○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
樓観蒼海日 門對浙江潮
 楼には観る蒼海の日 門に対す浙江の潮

○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
桂子月中落 天香雲外飄
 桂子月中より落ち 天香雲外に飄る

○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
捫蘿登塔遠 刳木取泉遥
 蘿を掴んで塔に登る事遠く 木を抉りて泉を取る事遥かなり

○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
霜薄花更發 水輕葉互凋
 霜は薄く花更に開き 水は軽くして葉互いに萎む

○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
夙齢尚遐異 捜對滌煩囂
 夙齢遐異を尚び 捜對煩囂を滌う

○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
待入天臺路 看余渡石橋
 天台の路に入るを待って 余が石橋を渡るを看よ

・ ○印の韻字と平仄を検して下さい。
・ 此の詩の作者は、「宋之問」として掲載された詩集もある。

 若い頃から遥かな世界の珍しい物に憧れていたが、今此の霊域を探り当てて、俗世の煩わしさが綺麗さっぱりと洗い流された様だ。
 これから私は天台の路へ入って行く、、、、、、

子夜春歌 五言絶句 郭震
 子夜春歌

陌頭揚柳枝 已被春風吹
 陌頭揚柳枝 既に春風に吹かれたり

妾心正断絶 君懐那得知
 妾が心正に断絶す 君が懐い那んぞ知るを得ん

・ 詩題の「子夜歌」とは、楽府題、即ち歌曲の題名で、四世紀「晋」の時 代の頃、今の揚子江の下流、呉の地方に「子夜」と呼ばれる女性が居て、 歌曲を作って歌ったが、其の曲が男女の愛情を歌って、甚だ哀切なもので あった為、当時の人々の好みに合い非常な流行を見た。
此の曲を「子夜歌」と云い、初期には楽器の演奏を伴わなかったらしい が、後には整備されて春夏秋冬の四部に分けて歌詞が作られるに到った。
 其れが「子夜四時歌」で、郭茂倩の「楽府詩集」には、春歌二十四首、 夏歌二十首、秋歌十八首、冬歌十七首が収録され、茲に挙げた詩は其れに 倣って郭震が作った「子夜四時六首」の中の春詩で、春に感じて夫を思う 情を述べる。

蜀中九日 七言絶句 王勃
九月九日望郷臺 他席他郷送客杯
人情已厭南中苦 鴻雁那從北地來

 九月九日重陽の節句に、名前からして郷愁をそそる望郷台に登り、よその土地のよその席で、旅人を送る別れの杯を取り交わす。
 私の心はもうほとほと、南の土地の辛さに厭き果てているのに、何であの雁は北の土地からこんな南の土地へ飛んで來るのだろうか。
 雁は北の土地を故郷とするもの、其れが九月になっても飛んで来て帰ろうとしないのは、何と当てつけがましい眺めであろうか。

・ 此の詩は一句を七文字で歌う七言絶句で、絶句という名称は既に六朝時 代から用いられて居るが、其の語源に付いては律詩の八句を半分に断った ものだと言う説、又は歌謡である楽府が四句を一つの単位として歌った事 から、これだけを断ち切って作った詩で有るという説など、種種な説明が 行われていて今日に定説はない。
  何れにしても絶句は四句で歌われた詩の事で、一句五文字の詩を五言絶 句と言い、茲に挙げた詩のように一句七文字の詩を七言絶句と云う。
  五言は既に六朝の時代から多く作られて居るが、七言は唐に入ってから 時代の要求に応じて急速に発展した新しい詩形で、従って唐では七言が最 も多く作られ五言は比較的少ない。
尚、唐以後の絶句は、五言七言共に近体詩として作られた作品が多く、 韻律や押韻の規則も、律詩の其れと変わりはない。


七の二  盛唐

 盛唐とは、玄宗の改元から玄宗の子蕭帝(名亨)迄の約五十年間を云い、丁度杜甫の活躍した時代でもある。
初唐百年間に昇り続けてきた唐の国運が、厭が上にも栄え海内は太平の全盛時代であった。
 然し其の全盛の中にも何時しか頽廃の影が忍び寄り、天寶に入ってからの玄宗の治世には、国家を破滅に導く条件が幾つも重なりつつ有った。
 政治に飽きた玄宗が、揚貴妃の愛に溺れた事と其の間隙につけ込んで、渦巻いた李林甫 揚国忠 安禄山の三巴の勢力争などで、幸いにも乱は間もなく平定されたが、これに依って受けた傷は癒すべくもなく、国運の衰退は加速されていった。
 こうした時代の前半、全盛の時代には多数の優れた詩人が肩を並べ、一時に美しい花となり、色とりどりに撩乱と咲き乱れた。
 王維は仏教的な静謐の中に孟浩然は自然の中に逃れて、共に山水自然の美を歌い、王昌齢は七言絶句に閨怨の世界を、高適や岑参は邊塞詩人の名を欲
まま
しい侭にしたが、然し何と云っても最大の詩人は李白と杜甫である。
 此処で初唐と盛唐に登場する詩人を挙げる。

初唐 魏徴 王績 王勃 揚烱 廬照鄰 駱賓王 李・ 蘇味道 劉庭芝   張若虚 沈・期 宋之問 蘇・ 廬撰 郭震 賀知章 李・ 胃韋    元旦 陳子昴 張説 賈會 張九齢 孫逖 張啓忠 張諤 劉庭 王   幹 
盛唐 孟浩然 張子容 王湾 李・ 李適之 萬楚 祖詠 蔡希寂 丁仙   之 崔國輔 王昌齢 王之渙 崔・ 崔曙 李燈 張均 玄宗皇帝    王維 裴迪 丘為 李白 儲光義 常建 張巡 杜甫 高適 岑参    李華 蕭頗士 賈至 張謂 厳武 葭業 崔恵道 崔敏童 櫻穎 張審  呉象之

春暁 五言絶句 孟浩然

眞 先 仄 覚効篠   語御  文 斎 篠
春眠不覺暁 處處聞啼鳥

仄 灰隊東 遇 庚   歌 薬 支 歌 篠
夜來風雨聲 花落知多少

 これは春の夜明けにベットの中で、うつらうつらとしながら、戸外の春を詠んだ詩で、第一句にも押韻していて、仄文字押韻の詩である。

・ 「知」の文字、その下に疑問詞を伴う時は始んど反語に読み、結局は不 知の意味になる事、詩に屡々見られる語法である。
「多少」とは日本語の意味異なり、肯定+否定・疑問で是不是 能不能 会不会 などと同様の疑問詞で有る。

閨怨 七言絶句  王昌齢

斎 東 篠嘯有 仄 支 尤   眞 質 蒸 陽 漾養仄 尤 
閨中少婦不知愁 春日凝粧上翠樓
 閨中の少婦愁いを知らず     春日粧いを凝らして翠楼に上る

月 霰 陌 尤 陽 有 職   隊 効肴虞 霰 錫 冬 尤
忽見陌頭揚柳色 悔教夫婿覓封候
 忽ち見る陌頭揚柳の色   悔いゆらくは夫婿をして封候を覓め教しを

 閨とは婦人の部屋、その中での女性の物思いを詠ずるのが、「閨怨詩」である。
 茲に挙げた詩は出征兵士の若妻が、夫の帰りを待ちわびる嘆き悲しみを歌う、下町風情の平凡な女性であろうか、夫が従軍していても一向に其れが苦にも成らず、勿論人生の問題なんか考えた事もない。
 だから「閨中の少婦愁いを知らず」若い嫁さんは悲しみというものを知らずに、心は浮き浮き陽気に弾んで、うららかな春の日、良い天気だというので厚化粧をして二階へ上がってみた。
 ふと目に留めたのは何時の間に芽吹いたのか、往来の端の柳の色の鮮やかさだ。 その柳は夫が出発の時、一枝折って別れに贈ったあの柳だと気付き、急に彼女は後悔する。
 早く手柄を立てて下さい等と云って仕舞ったものだから、独り寂しく過ごさねば成らないのだと、、、、、、。
 詩は初めて茲に至って、主題の閨怨を詠う。

涼州詞 七言絶句 王之喚

陽 歌 願阮漾養陌 文 刪   質 霰 虞 康 願 震 刪
黄河遠上白雲間 一片孤城萬仭山
 黄河遠く上る白雲の間      一片の孤城萬仭の山
有尤
陽 錫 歌珈虞 願問陽 有   眞 陽 物月薬遇沃 元 刪
羌笛何須怨揚柳 春光不渡玉門関
 羌笛何ぞ須いん揚柳の怨 春光は渡らず玉門関

 羌笛とはチベット遊牧民族、羌族の吹く笛。
 揚柳とは「折揚柳」と呼ばれる別れの悲しみを述べた笛の曲名。

 こんな所で戎の笛が、どうして柳を怨んで「折揚柳」の調べなど吹く必要があるのだろうか、中国本土を照らす春の光は、玉門関を越えてこちら迄は来ず、此処には揚柳も無く有っても芽を吹かないと云うのに。
 柳が芽を吹かぬ事を怨む事と、曲に述べられる別れの怨みをも意味する。

・ 此の詩に付いてこんなエピソードが伝えられている。
  ある時王之喚が親友の王昌齢や高適と連れだって、とある酒楼に上がっ たところ、たまたまそこに来合わせた宮廷楽師十数人が名に聞こえた妓女 を挙げての大酒盛り。
  三人は密かに相談して云うには、これらの名妓が三人の中、誰の詩を歌 うかに依って、その優劣を決めようと。
 斯くして待つ中、最初に歌い出されたのが王昌齢の詩、次いでは高適の 詩であった、気を悪くした王之喚「きゃつら老耄女の歌うのは下品の詩ば かり、上品の詩には近ずこうともせぬものだ」と言い、妓女の中の一番の 美人を指して、「あの妓の歌うのが、拙者の詩でなかったら諸君との張り
 合いは止めた。もし拙者の詩だったら諸君は床下に並び伏して拙者を師と 崇めるね」と。
斯くしてその妓女が歌ったのは此の詩(涼州詞)であった。
・ 詩題に云う涼州とは、今の甘粛省武威県、当時は都を遠く離れた邊塞の 地で有った。
  その地方に唄われて居た俗曲に涼州歌と言う歌が有り、玄宗の開元年間、 時の西京都督で有った、郭知運に依って、朝廷に献上されたと云う史実が ある。(詩詞譜編参照)
此の作は其れに合わせて新たに作った歌詞で、王翰の作にも同じ様な詩 がある。

怨情 五言絶句 李白

紙 眞 銑阮虞 塩   侵 個 眞 歌 支
美人捲珠簾 深坐顰蛾眉

旱 霰 斎 元 緝   仄 支 侵 願 支
但見涙痕湿 不知心恨誰

 女性と言っても恐らくは、天子の寵愛を失った官女で有ろうか、其の切ない恨みの情を歌った詩である。


七の三  中唐

 中唐とは、杜甫が亡くなる前年(大暦五年)から文帝の太和末年に至る約六十五年間の時期を云う。
 安禄山の乱は唐の歴史の転換であったと同時に、文学にも非常に影響をもたらし、即ち初唐から盛唐までの唐詩の発展だけを取って見ると、それはごく順調な上げ潮だったと言える。
 然し安禄山の乱以後、唐詩は目に見えない引き潮の中にあって、盛唐までの詩が春野の原を覆う百花斎放の季節だったとすれば、中唐以降の詩は秋の草花の様な詩で、人の目を奪う強い色彩は最早無いが、然し秋の七草や菊の花を思わせる物は矢張り咲き続け、亦吹きすさぶ木枯らしに耐えて、強い骨を持った詩人も少なくなかった。

中唐 劉長卿 包何 皇甫冉 郎士元 朱放 長継 張南吏 顧況 釈皎然  載叔倫 銭起 李端 耿・ 司空曙 廬綸 韓翊 韋応物 李益 王表  王烈 王建 羊士諤 武元衡 孟郊 張籍 韓愈 欧陽・ 張中素 呂 温 劉禹錫 劉宗元 元穎 賈島 張・

題木居士二首 七言絶句 風刺詩 韓愈
其一

火透波穿不計春 根如頭面幹如身
 火の透り波の穿って春を計らず 根は頭面の如く幹は身の如し

偶然題作木居士 便有無窮求福人
 偶然に題して木居士と作せば 便ち窮はまり無く福を求める人有り

 野火が通り抜け、川波が穴を穿ちつつ幾年過ぎただろうか、根は頭や顔のようで幹は身体のようだ。
でくにんぎょう
 何かの機会に「木の羅漢様だ」と名付けられたばかりに、其の木偶人形にご利益を求める人が、限りなく居るものだ。

其二
爲神・比溝中斷 遇賞還同爨下餘
 神と為すは何ぞ溝中の断に比せん 賞に遭うは還た爨下の余に同じ

朽・不勝刀鋸力 匠人雖巧欲何如
 朽蠧して刀鋸の力に勝へず 匠人巧なりと雖も如何んせんかと欲す


 神様に祭られて居るのは、溝の中の切れ端よりはましだが、愛でられたと云っても、薪の燃え残りの琴と同じ様なもので、ボロボロの虫喰いは、小刀細工する力にも耐えないので、腕利きの大工にもどうしょうも無いものだ。

・ 木像を神として幸福を祈る人たちに対する風刺詩で有る。

新楽府 五十編 其四十一  (諷諭詩)
官牛 諷執政也    白居易
麻魚              麻
官牛官牛駕官車 産水岸邊搬載沙
 官牛官牛車を駕し 産水の岸辺より沙を搬載す
宋腫冬             宋
一石沙 幾斤重 朝載暮載将何用
 一石の沙 幾斤の重さぞ 朝に載せ暮れに載せ将に何に用いんとす
            斎               斎支
載向五門官道西 緑槐陰下鋪沙堤
 五門官道の西に載せて向かい 緑槐陰下の沙堤に鋪く
            漾陽              斎霰
昨來新拝右丞相 恐怕泥塗汗馬蹄
 昨來新たに拝す右丞相 泥塗馬蹄を汚さん事を恐怕れる
    漾陽
右丞相
 右丞相
            屑               屑
馬蹄踏沙雖浄潔 牛領牽車欲流血
 馬蹄砂を踏み清潔なりと雖も 牛の首は車を牽きて血を流さんと欲す
漾陽                  陽
右丞相 但能澪人治國調陰陽
 右丞相 但能く人を済い國を治め陰陽調えば
            陽
官牛領穿亦無妨
 官牛襟を穿たるるも亦妨げ無し

 官庁車に繋がれた御上の牛が産水の岸辺から砂を運んでいる。
 車に積んだ一石の沙、幾斤の重さであろうか、朝に暮れにと運んでいるが、一体何の為に使うのか。
 積んで行く先は五門の前の大通りの西の邊、槐の木陰で沙堤に敷く砂らしい、其れで分かった。
 昨日來、新たに任命された右大臣様の馬の蹄を泥んこ道で汚しはせぬかとの気遣いなんだ。
 砂を踏んだ大臣様の馬蹄は綺麗で済むが、車を引っ張る牛の襟首は血が流れそう。
 でも右大臣様が、立派に民を救い國を治め、陰陽の気を和らげて下さるなら、牛の襟首に穴が開く位は構いませんが。

・ 句末文字の韻を傍記して有るので、韻の構成を検討して見よう。

食後 (閑適詩)白居易

食罷一覺睡 起來両甌茶
 食罷りて一覚の睡り 起き来たりて両甌の茶
 食事が済んで一眠りし 目が醒めると二椀の茶を啜る

擧頭看日影 已復西南斜
 頭を挙げて日影を見るに 已に復た西南に斜めなり
 頭をもたげて空を見ると 何時しか日は西南に傾いている

楽人惜日促 憂人厭年・
 楽しき人は日の慌ただしきを惜しみ 憂うる人は年の長きを憂う
 快楽を追う人は日の移り変わりの慌ただしいのを惜しみ
 憂いを抱く人々は一年の長いのに閉口する

無憂無楽者 長短任生涯
 憂いも無く楽しみも無き者は 長きも短きも生涯に任す
 憂いもなく楽しみもない私は長きも良し短きもよし、全て生涯の成りゆき任せ


七の四  晩唐
 
 晩唐とは、文宗の開元年間(八三六)から唐の滅亡(九0九)に至る約七十年間を云う。
 此の時代に入って唐の国家はいよいよ疲弊し、一路崩壊の道を辿る様に成
しま
って、遂に朱全忠(八五二ー九一二)の手に依って滅ぼされて仕舞った。
 文学に於いても世紀末的、頽廃的様相を帯びる様に成って、古詩製作の意欲はとみに衰え、詩壇の主流は再び典麗精緻な形式へ戻る中で、詩の格調は極度に繊細化し、内容もよりローマン的と成って、一種の唯美主義とも云うべきひたむきな美が追求された。(西崑体)
 李商隠 温庭・ 韓・ 等の文学が其の代表的な物で、これ等の詩人が出現して唐詩の最後を飾ったが、全体としてそこには最早盛唐詩が持っていた強烈な色彩は無く、衰退して行く唐の最後の輝きと言える。
 
晩唐 文宗皇帝 許渾 干武陵 李商隠 温庭・ 趙・ 段成式 葭瑩    司馬禮 張喬 李拯 崔魯 廬弼 偉荘 王周 韓・ 李建勲      釈処黙 白居易

夜雨寄北 七言絶句 李商隠
 夜雨北に寄す

君問歸期未有期 巴山夜雨漲秋池
 君は歸期を問うも未だ期有らず 巴山の夜雨秋池に漲る

何當共剪西窓燭 却話巴山夜雨時
 何か当に西窓の燭を剪り 却って巴山夜雨の詩を話すべき

 北方の長安に居る妻か愛人に書き送った詩である。
 何時お帰りになりますのと、そなたは私の帰る期日を訪ねてきたが、何時帰れるとも其の期日は分からない。
 今、私のいる巴山の麓では、降りしきる夜雨が秋の池一杯に漲っている。
 二人共々あの西向きの窓辺で、蝋燭の芯を鋏で剪りつつ夜遅くまで話し合う中、さてはと巴山夜雨の時に及んで、私の今の状況をそなたに話すのは、何時の時であろうか。
 
・ 自分の今置かれている巴山夜雨という状況、其れを未来の対話の話題と して想像する手法を取っている。
  却ってと言うのは、妻と対話する中、さてはと話題が転換する事を示し たものである。

秋日湖上 葭瑩
落日五湖遊 尤韻 煙波處處愁尤韻
浮沈千古事    誰與問東流尤韻
 作者が秋の夕暮れ、湖上に船を浮かべ遊んだ時の感慨を述べた詩。

・ 五言絶句では、通常第一句には押韻しない事が多いが、此の詩は「尤」 で押韻している。

赤壁 七言絶句 杜牧 (詠史)

  陌   麻   未 蕭     陽漾  斎銑  先 蕭
折戟沈沙鐵未消 自将磨洗認前朝
 折戟沙に沈んで 鐵未だ消せず 自ら磨洗を将って前朝を認む

  東   蒸径尤 陽 先霰    薬 眞 侵   仄 蕭
東風不與周郎便 銅雀春深鎖二喬
ため
 東風周郎が與に便ぜずんば 銅雀春深くして二喬を鎖さん

 赤壁の戦い、あの時万が一にも東風が吹かなかったら、周瑜には都合良く行かなかった。
 春深き銅雀の亭に美しい喬氏の二人は何時までも閉じこめられる、悲しい運命を過ごしたで有ろうか。

  二喬ーー呉の地方の二人の美女の姓 姉は孫権の兄 孫策に、妹は周瑜 の妻と成った。
・ 此の詩は実際には起こらなかった事を、仮に「起こったとしたら」 と 言う想像の産物である。


七の五  詞

 唐末宋に於いて発達した「詞」が有る、これは民歌から発達したと言われ、今世紀に於いて中国人は往々にして、「詞」の方が「詩」よりも好んで作ると言われている。
 詞とは初めに元歌が有って、其の元歌のリズムに倣って「字句を埋めて行く」替え歌の様な物で、又の名を「詩余」とか「填詩」などと云われ、八百二十六調、二千三百六体の詞譜は世界の定型詩の中で類を絶している。
○は平文字         ●は仄文字
◎は平韻文字        ・は仄韻文字
・ 印の無い文字は平仄を問いません。
長相詞 生査子 とは元歌の名で「詞牌」と云う。

長相思(詞牌名)    唐白居易
◎       ◎
汁水流 泗水流
 汁水流れる   泗水流れる

  ● ○ ○   ● ◎     ○   ● ◎
流到瓜州古渡頭 呉山點點愁
 流れて瓜州古渡の頭に到る 呉山点点の愁い

◎ ◎
思悠々 恨悠々
 思い悠々 恨み悠々

● ○ ○   ● ◎     ○   ● ◎
恨到歸時方始休 月明人倚樓
 恨みは歸時に到りて方に始め休めん 月明らかに人は樓に倚る

生査子    唐韓・

● ● ○ ○     ● ○ ○ ・
侍女動妝匳 故故驚人睡
 侍女くしげを動かし 事更に人の眠りを驚かす

  ●   ○ ○     ● ○ ○ ・
那知本未眠 背面偸垂涙
 那んぞ知らん本未だ眠らざるを 面を背けて秘かに涙を垂る

  ● ● ○ ○     ● ○ ○ ・
懶卸鳳凰釵 羞入鴛鴦被
 懶うく卸す鳳凰の釵 恥らいて入る鴛鴦の被

  ● ● ○ ○   ○ ● ○ ○ ・
時復見残燈 和煙墜金穂
 時に又残灯を見る 又煙金穂を落とす

ふすま
 恥じらいながら夜の襖に入る ふと気付くと灯火を消し忘れていた。
そして灯芯の穂が落ち 煙が立っていた
○ 前段後段の区切りで、此の詞は前段後段の二段より成り立つ。


    第八章 宋

 唐の後五代を経て、太宗(趙光義)が今の河南開封、汁梁に都してから、女真族「金」に追われて都を今の折抗州に移し、これを北宋に対して南宋と云い、その後北方遊牧民族である、「元」に金も滅ぼされ元となる。
 宋代に成ると、作詩は何等特別な行為で無くなり、日記を付け手紙を書き随筆を綴るように詩を書いた。
 だから宋人の詩の数は大変に多い、唐詩の全部を集めた全集に「全唐詩」があり、全五百巻に約四万八千首を収め、大部には違いないがかなり努力すれば通読できない事はない。
 然しながら宋詩はそうした形の全集は出来て居ない。何しろ陸游独りで九千首。千首や二千首の詩人はざらに居て、更に詩人の数自体がうんと多い。
 詩が日常化すると、誰も作れる様になる訳だし、教養有り余暇ある人々が増えれば、作詩人口が増えるのは当然である。
 然しながら、その様に盛んになった宋詩は、後の時代になって中国や日本の詩人達が唐を祖述すべきか宋を祖述すべきか、其の見解が分かれ論争になったりした。
 そして宋詩は何故反発と無関心の対象に成ったかと云うと、宋詩は一口に云ってエリートの詩である。
 唐詩は人間の生の感情を率直に歌おうとし、宋詩は感情を理性に依って修正し、醇化しようとする。
 唐詩はダイナミックで有るのに宋詩は平静である。
 唐詩は華麗で有り、宋詩は淡泊である。
 唐詩は感性的に受容する詩で、宋詩は知的に玩味する詩である。
唐人は文学だけに専念したが、宋人は文学と共に哲学をも文明の課題とし、その事は文明全体の方向を大きく規定する事柄でもあった。
 詩人がそれぞれに哲学を抱き、其れを詩に依って語りたがる事で、人間の現実に対して従来よりきめ細かな、或いは幅の広い目を向ける以上、人間とは何で有るか、如何に生きるべきかを一層切実に考え、そうして哲学の叙述の為には、論理的な言葉を有る場合には詩的調和を破るのではないかと思われる迄用い、所謂る「議論を以て詩と為す」「理を以て詩と為す」で有る。
なかんづく
 就中北宋の周敦頤から、南宋の朱熹に至って大成する哲学の系譜は、民族の伝統として来た思想の、集大成的な体系化であって、この時代に詩人も哲学を愛する雰囲気の中にあって、彼らも亦哲学者としての業績を詩の業績以外に持つ事となった。
 こんな具合だから、宋詩は創る為にも味わう為にも、高度の理性と教養を前提にするので、充分な教養を持たぬ人々が尻ごみするのも無理はなく、広範囲の読者を得るには不利である。

宋 文天祥 林逋 梅尭臣 欧陽修 蘇舜欽 柳永 王安石 蘇軾 黄庭堅  陸游 范成大 揚万里 辛棄疾 載復古 元好問

山園小梅 七言律詩 林逋(和靖)

衆芳揺落獨暄妍 占盡風情向小園
 衆芳は萎み落ちて独り鮮やかに美しく 風情を占め尽くして小園に向かう

疎影横斜水清浅 暗香浮動月黄昏
 疎らな影は横ざまに斜めにして水は清く浅く 闇の香りは揺れ動きて月は黄昏なり

霜禽欲下先偸眼 粉蝶如知合断魂
 霜時の鳥は下らんと欲して先ず眼を盗み 紋白蝶の若し知れば当に魂断ゆべし
幸有微吟可相狎 不須檀板共金尊
幸いに微かに歌いて相畏そるべき有り 拍子木と黄金の樽とを用いざるなり

第一聯ー あらゆる花の姿を隠した寒い季節、ささやかな庭に君臨する梅の
なまめ
    花の、艶かしい中に凛とした美しさを唄う。
第二聯ー 梅の花の最も美しさを発揮できる状況の、具体的な描写であると    同時に、梅の花の雰囲気の象徴的な表現ともなっていて、古来絶唱    とされている一聯である。
第三聯ー 鳥や蝶に託して、梅花を慕う気持ちを述べ、鳥が梅の枝に憩う為    に舞い降りて來るとき、止まる前に先ず盗む様に流し目で花を眺め    ないでは居られない。
第四聯ー 梅花を愛するには、花の下を口ずさみつつさまようのが、最もふ    さわしい事を述べて、一編を締めくくる。

 小さな詩境を淡泊な筆致で述べた作品で、時代の影響を完全に免れた訳ではない。
つなが
 何処か西崑体的なきらびやかな感傷を含んでいて、恋愛の詩とも継りそうな、艶な感じを受ける。

・ 第一句の「妍」の韻は「先」で、「元」の韻に通韻させているが、これ は古詩では何でもない事だが、律詩では反則である。

和才叔岸傍古廟 五言古詩 梅尭臣(宛陵)
才叔の「岸の傍の古き廟」に和して

樹老垂纓亂 祠荒向水開
樹は老いて紐を垂れて乱れ 祠は荒れて水に向かいて開く

 古廟の荒れ果てた様子を全体的な雰囲気で示し、老木は社が建立されてからの年月を象徴するかのように聳え、冠の紐を垂らした様に水面に枝を垂らして乱れかかる。
 建物はすっかり荒れ果てて川に向かって開いていると。

偶人經雨・ 古屋爲風摧
 偶人は雨を経て倒れ 古屋は風の為に摧かれる

 祠の荒れた様子を更に一歩踏み込んで示す。
 屋根が壊れ廟内の人形はぶっ倒れている。

野鳥棲塵座 魚郎奠竹杯
 野の鳥は塵座に棲み 魚郎は竹の杯を供える

 それでも此の廟もまんざら見捨てられて仕舞った物でもない、鳥は巣を作るのに利用しているし、本来の目的通りに漁夫は御神酒を献げている。

欲傳山鬼曲 無奈楚辞哀
 山鬼の曲を伝えんと欲すれど 楚辞の悲しきを如何ともするなし

 南国を旅した作者の感動を以て、一編を締めくくる。
 此の社は楚國の「山鬼」(詞譜編参照)の曲の舞台にふさわしい。其れを村人達に教えようとしたが、あの屈原の事が思い出され、其れが自分の境遇と重なって、悲しみを一つにした。屈原歴史編楚辞屈原参照

 祠はだいたい日本の神社と考えて良い、山川の神 土地の神 偉人などを祭り、泥人形を御神体とする。
 そして此処は川岸であるから水神であろう。余りあらたかで無いと見えて、ろくに手入れもされず、荒れている様子を詠んだ。

・依韻ー一東ならば一東、の様に同じ韻の範疇で詩を作る
 和韻 依韻と形式的には同様であるが、原作の意を受けて韻を次ぐ。
 用韻 原作の韻文字を用いるが順序は拘らない。
 次韻 同韻字を同じ場所に用いる。
 疊韻 同じ韻を用いて、拾首も二拾首も作る。
  
庚申正月遊斎安 七言絶句 王安石
 かのえさる正月斎安に遊ぶ

水南水北重々柳 山後山前處々梅
 水の南に水の北に重なり重なる柳 山の後ろに山の前に處處の梅

未即此身随物化 年々長趁此時來
 未だ直に此の身の物に化すに随はずば 年々長く此の時を趁いて来たらん

 起句承句で春の景を歌う。私ももう年老いた。だが幸いに未だ直ぐに此の身が物の必然的な変化を被るという仕儀に到らなければ、毎年毎年何時までもこの春の時を追いかけて、此の寺にやって來る事にしよう。

・ 七言絶句の第一句は押印する事が普通だが、此の句の様に起句と承句が 対句の時は、これを「前対」と言い起句に押韻しなくとも良い。
仄平 仄仄 平平仄・・・・・・・
平仄 平平 仄仄平 韻文字・・・対句
・ 物化ー[荘子]徳充符編に物の化を命とす、に基づいて、物は変化を必 然とする所から、人間の被る必然的変化、即ち「死」を意味する。
 
六月二十七日望湖樓酔書 七言絶句 蘇軾
 六月二十七日望湖樓にて酔いて書す

職 文 元 職 未 麻 刪   陌 遇 蕭嘯處 翰 緝 先
黒雲翻墨未遮山 白雨跳珠亂入船
 黒き雲は墨を翻すも未だ山を遮らざるに、白き雨の珠を飛ばして乱れて船に入るを

巻地風來忽吹散 望湖樓下水如天
 地を巻きて風は来たり忽ち吹きて散らす、望湖樓の下は水天の如し

眼前の景を其の侭詠んだ純客観的な詩で、黒い雲が墨壺をひっくり返した様に空のあちこちに散らばって居るが、まだ山を隠して仕舞うという所迄は成って居ないのに、真っ白な雨は丁度真を珠ばら撒いた時の様に散らばって滅茶苦茶に船に飛び込んでくる。
 此の夕立も風に吹き払われ、望湖樓の下は大空のように平静に成った。
 
・ 此の詩を寸刻見ると、部分的に  起句 仄平 平仄 仄平平
 は対句の様な言葉使いで有るが   承句 仄仄 平平 仄仄平
 対句ではない。それは対句は原則として文法上は同じ、発音上は平仄を異 にするので、此の句は両者を満足して居ないから、対句とは言えない。
・ 脚韻は平声刪韻と先韻で、通韻している、古詩なら何でもない事だが、 絶句では変則で有る。然し起句に限っては往々作例がある。

中牟道中 七言絶句 陳與義

 支   康     康               康
雨意欲成還未成 歸雲却作伴人行
 雨意成らんと欲し尚未だ成らず 歸雲却って作す人に伴って行くを

                           康
依然壊郭中牟縣 千尺浮屠管送迎
 依然たる壊郭中牟縣 千尺の浮屠送迎を管す

 中牟縣首都・京の小都市 浮屠仏寺の塔 
 中国平原を馬車で行く旅人が、都市に近づいて先ず見るのは都市を取り囲む城壁の上から頭を覗かせるパゴダで有る。
 依然として壊れかかった城壁の上に見える千尺の塔、それは今日も雨模様の平原で旅人を送迎する役目を管掌する。

・ 起句に「成」と言う文字が二度使われている、近体詩の場合一首の中に 同じ文字を二度使ってはならないと言われている。
  然し一句の中なら作例も多くあるのだが、同じ意味では良くないと言わ れている、どちらにしても作詩に当たっては注意しなければ成らない。

春残 五言律詩  陸游

老堕空山裏 春残白日長 陽韻
 老いて空しき山の裏に堕ち 春は終わりに近づき真昼は長し

傭醫司生命 裕子議文章 陽韻
 庸医は生命を司り   裕子は文章を議す

燭映一池墨 風飄半篆香 陽韻
 燭は一池の墨に映え 風は半篆の香を飄はす

個中有佳處 袖手看人忙 陽韻
 個の中に佳き処有り 手を袖にして人の忙しきを看る

  一池硯の池ー硯の海の事、後漢の張芝が池の側で書を学び、余った墨を 池に捨たので、池の水が真っ黒になったと言う故事を意識している。
 私も年をとり、こんな人気の無い山の中へ堕落してきて居るが、春は暮れ残るこの頃、世間では平凡な医者が人の肝心な命を支配し、俗人が尊い文章をあれこれ批評する。
 然し外界のそう言う騒がしさを外にして、私の部屋は飽くまで静かで、墨を硯に摺って置くと、硯の海に湛えられた墨水に燭の影を映し、香を焚くと、風が半ばさし昇った篆字の様な煙をフワフワとたなびかす。
 ひっそりとした境涯の中にも、仲々趣の深い処が有る、其れは私が懐手をした侭、世間の人々があくせく働いて居るのを傍観して居られるからだ。

・ 枯れた風情の中にも、戦闘的な作者の魂を覗かせている。
 
後催租行 茫成大
 後催租行 前作に対する後作 年貢取立の歌

老父田荒秋雨裏 舊時高岸今江水
 老父の田は秋雨の裏に荒れ 昔高き岸は今江の水につく
 老いた農民を襲った水害、爺さんの田は打続く秋の長雨の為に、作物は台無しにされて仕舞った、何しろ以前は高い岸だったが、今はすっかり水の中に浸かっていると言う有り様だからな。

傭耕猶自抱長飢 的知無力輸租米
いだ
 雇われ耕すも、猶自ずから飢えを抱けば、年貢の米を輸す力の無きを確かに知る。
 水害を看る農夫の心中、農夫の独白、私の田はこの様で作りようもない事だから、地主様に雇われて其の田を耕し、手間を稼いでは居るが、其れでも何時も饑じい思いをして居る。

自從郷官新上  黄紙放盡白紙催
 郷官の新たに上に来たりしより 黄紙もて放し尽くして白紙もて催る
 税の軽減の胡麻かしを暴く、今度の知事さんが儂らの上に来てからと言うもの、御上納税免除の黄色い紙の御触れが來ると、その後を追いかけて白い紙の督促状がきて、上納は矢張り免れられない。

・ 黄紙は免税の勅書、皇帝は民心を収める為に、時々勅書を下して減免を 公布するが、実際は地方官が勝手に徴収するので、効果が余り上がらなか った。
・ 白紙は徴税の公文書、蘇軾の「詔に応えて四っの事を論ずる書」に「黄 紙もて放し了りて、白紙もて卻りて収む」と有る。

賣衣得銭都納卻 病骨雖寒聊免縛
すべ
 衣を売り銭を得て都て納まり終わり 病みし骨凍えると雖も聊めに縛られるを免れる。
 納税の為の苦労、一昨年は家中の有りったけの着物を売り飛ばし、上納を済ませた物だった、お陰で持病持ちの此の老骨は、其の冬ひどく凍えて困ったけれど、取り敢えず年貢未納と云う事で、暗い所へ入れられるのだけは助かった。

去年衣盡到家口 大女臨岐兩分首
 去年は衣尽きて家口に到り、上の娘は辻に臨みて両人ながら首を分かつ。
 売る物が無くなると今度は人間の番である、(家口は家の構成員)第一番の犠牲者に成って呉れたのは一番上の娘、人買いに連れられて出て行くのを村外れの辻まで見送って別れた。

今年次女已行媒 亦復驅將換升・
今年は次の娘は既に媒を行いしに、亦復駆りて将って升に換う。
 今年も矢張り娘を売らねばならぬ、せめて次の娘は人並にと、もう仲人を立てて縁組みも調って居たのだが、それでも次の娘を追い立てるように連れて行って、一合一升の年貢の代金と取り替えた。

室中更存第三女 明年不怕催租苦
 室中には更に第三の娘を存す 明年は年貢の催るの苦しきを怕れず。
 明年はいよいよ末の娘を売らねばならぬ、家の中を見渡すとまだまだ末の娘が残っている。
 こいつが居る限りはまだ安心。来年は御上から幾ら年貢を催促されても、先ず心配には及ぶまい。

・ 此の詩の後半の悲惨さは読むに耐えない。親が娘を売ると云う此の上無 い残酷さ、其れも最初はやむを得ず泣く泣くだが、ついには其れを当てに すると云う心理の変遷を作者は見逃さない。
  末の娘を売り尽くせば労農はどう成るのだろうか、土地を無くして自分 も下男になるか、流民となって他国の空をさまようしか有るまい。
自分が幾ら頑張っても、労農に娘を売らずに済む様にしてやる力はない、 そこに諦めが生まれてくる、其の諦めは全くの無関心になり、事態から目 を反らすのだが、其れを許さないだけの良心が范成大には有る。そして彼 は傍観者では有っても、全くの傍観者では無いので有る。
・ 此の詩は初めに記す通り、七言古詩換韻格である。別冊基本篇で詳しく 説明するが、先ず韻の換わり方に注意すると、平仄交互に換わっている事、 内容の変わり目と韻の換わり目とが一致して居る事、この二点に気付かれ た事と想う。

初入淮河四絶 其の四 揚萬里
 初めて淮河に入る四絶

中原父老莫空談 逢着王人訴不堪
 中原の老父は空しく談たる莫かれ 王人に逢着して堪えざるを訴うるを
 中原の地の長老達よ、無駄なおしゃべりは止めてくれ、天子様のお使いに路で出会ったからと云って、現在の境遇の堪え難い苦しみを訴える様な真似はしないでくれ

卻是歸鴻不能語 一年一渡到江南
 却って帰る鴻の鳥は語る能はざれど、一年一度渡りて江南に到る
 看てご覧、南へ帰る鴻の鳥は、言葉なんか言えないけれど、それでも一年に一回は揚子江の天子様のお国へ渡ってくる。
 だがあなた達は口では色々云うが、結局は敵国の領土に縛り付けられて居なければ成らないのだ。

・ 逢着の着は事象が完了している事を示す助詞、現在完了進行形。
・ 四絶とは、同一題の詩四首と云う事で、「連作」と言い、此の場合四首 とも韻を異にしなければ成らない。

 唐代末から盛んになった「詞」を一編紹介しよう、清平楽とは詞の形式の名称で、「詞譜」と言い、三人の中の一人が遊んでいる構成は楽府の「三婦艶詩」に良く似ている。

清平楽 辛棄疾(稼軒)

茅簷低小 渓上青々草
 茅の軒は低く小さく 渓の上は青く青き草

酔裏呉音相媚好 白髪誰家翁媼
 酔裏に呉音の相艶かしく好く 白髪の何処かの家の御婆さんか
      ○
・ ○印は前段後段の分かれの印

大兒鋤豆渓東 中兒正織鶏篭
 大児は豆を渓の東に鋤き 中児は正に鶏の篭を編む

最喜小兒無頼 渓頭臥剥蓮蓬
 最も喜ばしきは小児の無頼にして渓の頭に臥して蓮の実を剥くなり。


    第九章 金

 金と云う王朝(一一一五年ー一二三四)は女真族の立てた政府で、満州 華北に跨り、北京 開封に都したが十三世紀に入って蒙古に滅ぼされた。
 金王朝は其れ迄の文化に対する理解が深く、多くの文化や制度が以前の侭に尊重され、此の後に來るモンゴルに比べて極めて幸いな事であった。
 宋は金に圧迫されて、淮水を境として南に退き杭州に都し、北に金王朝、南に宋王朝と都したが、共にモンゴル人に依って滅ぼされ「元」となった。 依って南宋の時代と金の時代とは時間的に見れば重なって存在して居るのだが、此処で云う金詩と言うのは、金の彊域に生活していた人の作品を云う。
 その後女真族は「民」を経て再び「清」を建国した、其の彊域は元に次いで史上二番目である。

續小娘歌 元好門
其の一
 「続」と有り、歌い得たり唱娘相見曲と有るところから、一般に唱娘曲なる歌があり、其の替え歌として作られたと思われる。

・ 蒙古軍の侵略に対し人民は死か奴隷か二つしか選ぶ路はなかった、死を 免れた者は奴隷として蒙古の地に投入され、此の詩は金末の混乱期に至る 所で見られたで有ろう蒙古軍による略奪連行を歌う。

呉兒沿路唱歌行 十十五五和歌聲
 呉兒路に沿いて歌を唱い行く 十十五五和歌の聲
 呉國の若者は路を行くにも歌を唱いながら行く、十十五五と合唱の聲

唱得唱娘相見曲 不解離郷去國情
 唱い得たり唱娘相見の曲 解せず離郷去國の情
 唱うのは唱娘の逢い引きの歌、郷を離れ國を去る気持ちなど解りもしないのだが

其の三
山無洞穴水無船 單騎驅人動數千
 山に洞穴無く水に船無し 単騎人を駆りてややもすれば数千
 山には洞穴も無ければ河には船もない 一人の騎馬兵が駆り立てるのは、じきに何千という數になる

直使今年留得在 更教何處過明年
 たとえ今年は留まり得て在るも 更に何処にか明年を過ごさん
 例え今年は此処に留まる事が出来ても、何処で明年過ごす事に成るやら

其の五
風沙昨日又今朝 踏砕・頭路更遥
 風沙昨日又今朝 ・東を踏砕して路更に遥かなり
 砂の風は昨日も今日も 娘達は靴下を履き潰したが、路は更に遥か

不似南橋騎馬日 生紅七尺繋郎腰
 似ず南橋騎馬の日 生紅七尺郎の腰に繋ぎしに
 南橋の繁華街で、若者と一緒に一つの馬を乗り回し、真っ赤な七尺の帯を彼の腰に締めてやった時とは、似ても似付かぬ。

其の八
太平婚家不離郷 楚楚兒郎小小娘
 太平の婚家郷を離れず 楚楚たり兒郎と小小娘
 太平の世の結婚は、郷から外へは出なかった きゃしゃな坊やに可愛らしい娘達

三百年來涵養出 卻将沙漠換牛羊
 三百年来涵養されて出ず 卻って砂漠に率いられて牛羊に換う
 三百年このかた甘やかされて来たのに 今や砂漠に連れていかれ牛や羊と取引されるのだ。

其の九
飢烏坐守草間人 青衣猶存舊領巾
 飢烏坐守す草間の人 青衣猶舊の領巾を存す
 飢えた烏が草原に崩れ落ちた骸骨の番をしている 青い上着の女で有ったろう、古いスカーフが其の侭残って居る

六月南風一万里 若爲白骨便成塵
 六月南風一万里 如何ぞ白骨便ち塵と成る
 万物を生育する筈の六月の南風が、一万里もの彼方から吹いて來るのに、
どうして其れに背いて白骨は忽ち塵に化して行くのか。

・ 連作の詩を作る場合、一首毎に「韻」を換えなければ成らない、長編の 詩を作る事は仲仲難しいが、四句の詩を其の一、其の二として作れば、比 較的容易に長編と同様の内容を表現する事が出来る。


    第十章 元

 十三世紀の世界史で最も大きな事実は、ヂンギスカンに始まる蒙古族の武力が、暴風の様に世界を吹き巻くった事である。
 中国は云うに及ばず、東は「元寇」として日本にも及び、西はヨーロッパ迄吹きすさんだ。
 女真族の国家「金」が其の犠牲になって滅んだのは千二百三十五年で、南に有った宋はその後も命脈を保って居たが、ヂンギスカンの孫でフビライの時代になって南征が開始され、千二百七十九年に文天祥等の抵抗も空しくついに滅んだ。
 蒙古の侵略は全くの暴風であって、先ず蒙古軍の包囲に対して降伏を申し入れた街は見逃される。
 然し陥落前少しでも抵抗を試みた街は、陥落後住民の全部を虐殺し、俳優、大工、その他技術者だけを例外とするのが、蒙古の侵略の掟であって、此の掟は厳格に守られた。
 侵略は生命に対する脅威ばかりでは無く、蒙古人はその頃中国の文明に対し最も無理解な部族であって、蒙古は中国の文明に触れるより先に西域中央アジアの文明に接した事が、其の要因の一つであると言われ居る。
 漢民族が他の民族に支配されたのは、満州の女真族に依る期間であるが、金は漢民族の文化を大いに取り入れ、最も文明に対して従順で有って、中国の文明に対する尊敬の象徴としての科挙の制度を忠実に実行した。
 然し元に於いてはそうでは無く、やっと孫のフビライの代になって、中国を理解する様には成ったが、とても文学に迄は至らなかった。
 南宋末期、元に対する抵抗の時代、文天祥が有名で日本でも江戸時代の末期には、攘夷論者に取って彼の事跡はバイブルでもあった。
 然しその様な目立った現象と共に蒙古人による統治が、漢人の政治関与を制限した事に依って、南宋亡国後の南中国には静かなそして広汎な重要な画期的な現象が起こりつつあった。
 それは漢人の政治関与への抑制が、其のエネルギーのはけ口として、一つには商業の発達と、又文学の発展でもあった。
 そこで詩に付いて一例を示せば、南宋亡国後十年「呉渭」が懸賞付きで「詩」を浙江各地の詩社から募った。
 題は「春日田園雑興」で、二千七百三十五人の応募者があったと云う事は、少なくとも其れだけの作詩能力のある人が居たという事で、文学が如何に広汎に普及して居たかと言う証明でもある。

入選作 春日田園雑興 羅公福

老我無心出市朝 東風林壑自逍遥
 老いし我は市朝に出ずるに心なく 東風の林と谷と自ずから逍遥す

一犂好雨秧初種 機道寒泉薬旋澆
 耕すに好い雨に苗を初めて植え 幾道の寒泉は薬に即ち注ぐ

放犢晩登雲外隴 聽鴬自立柳邊橋
 犢を放ちて夕べの雲の登る外の畔 鴬を聞き自ら柳の辺の橋に立つ

池塘見説生新聲 已許吟魂入夢招
 池塘には見え説う新しき草生え 既に吟魂の夢に入りて招くを許す

・ 此の時代になって、市民の詩人を読者とする平易簡便な、作詩教本が数 々作られる様になった。
  「瀛奎律髄四十九巻」「唐宋千家聯珠詩格二十巻」「詩林広記」などが 有り、此の時代には作詩が最早一部の文化人の独占物では無くなって、誰 でも詩が作れる様に成った。

 此処で非漢族に依る作品を紹介しよう。
客中九日  薩都刺

佳節相逢作遠商 菊花不異故人郷
 佳節に相逢うて遠き商人となる 菊花は故人の郷と異ならず

無銭沽得隣家酒 一度孤吟一断腸  
 銭の隣家の酒を買い得る無し 一度の孤吟一たび腸を断つ

病中雑詠  薩都刺

爲客家千里 思歸月満樓
 客と為りて家千里 帰りを思えば月樓に満つ

木犀開欲盡 病裏過仲秋
 木犀開いて尽きんと欲す 病の仲に仲秋をすぐ


    第十一章 明

 「胡虜に百年の運無し」此の予言の如く、蒙古人による中国全土の統治は、世祖フビライの南宋併呑の後、百年を満たずして崩壊する。
 元の最後の天子であった順帝トガンチムールは、二十七年に亙る在位年数の大部分を南方諸地域の反乱に悩まされ続ける。
 反乱の指導者達は、相互に敵対関係にあったが、安徽の鳳陽から起こった朱元璋が他の全てを圧倒して南方を統一した上、北に攻め上り千三百六十八年順帝を北方砂漠地帯に遁走させる。
 そうして漢民族による統一帝国の主人となり、国都を江蘇の南京に置き、国号は「明」年号は「洪武」以後三百年に亙る明帝国の創始である。
 朱元璋は其の帝国を創始するに当たり、一つの主義を持って居た様で、素朴 簡易 実行 率直 武断 それらを尊び、煩瑣 文弱 虚飾 を憎む主義で、彼は曾て漢の高祖劉邦以後千五百年ぶりに出現した純粋な庶民出身の天子で、かと云って儒者の冠に小便をひっかけた漢の高祖程には無学では無かった。
 明の帝国は蒙古人を追い払い、漢人の主権と文明を恢復した事を誇りとし、事実其の通りである。
 然し一方では蒙古人が暴力に依って押しつけた素朴を、巧妙に利用したと見られる所があり、例えば十四代目の天子、神宗萬暦帝の宰相張居正に「我国は元の継承者であり、宋の継承者ではない」と言う言葉がある。
 当時有力な詩人達は南方、殊に蘇州を中心とする地帯の市民であるが、但しその人達が文学を才能の中心とした事、少なくとも朱元璋の目からそう見えた事は、彼らに取って不幸であった、為政者からみて彼らは旧態依然たる知識人と見なされ、概ね粛正の対象となる。
 そして茲に紹介する高啓も亦その一人である。扨て此処で長編の詩を紹介しよう。長編の作品はとても多いのに日本人に取って、鑑賞やまして作詩と成ると手に負えないのでどうしても遠慮がちになる。
 
青邱子歌   高啓

江上有青・、予徒家其南、因自號青・子、
 江上に青邱有り、予移りて其の南に家し、因りて自ら青・子と号す

閑居無事、終日苦吟、閑作青・子歌、
 閑居無事、終日苦吟、閑かに青・子の歌を作りて、

言其意、以解詩淫嘲。
おもい
 其の意を云い、以て詩淫の嘲りを解く。

 河辺の岸に青い丘がある。私は其の南側に引っ越して住み、土地に因なんで青・子と言う号を付けた。侘び住まいで仕事もなく、一日中詩を苦吟し、其の合間に「青・子の歌」を作って自分の気持ちを謂い、其れに依って詩気違いと謂われて居るのに対する言い訳にする。

・ 此迄は此の歌の前置きで有って、詩にはこの様に長い前置きの付いた作 品が多々有る。
  例えば陶淵明の作品「飲酒二十首竝序」「桃花源の詩竝序」「形影神竝 序」など。

青・子 痩而清 本是五雲閣下之仙卿
 青・子 痩せて清し 本是五雲閣の仙卿なり
 青・の男、清らかにして痩せた姿 前身は五雲閣辺りに仕えた仙人だが

何年降謫在世間 向人不道姓與名
 何れの年か降謫せられて世間にあり 人に向かって姓と名を云わず
 何時の年に人間界に流罪に成ったか、他人には氏素性を教えない

躡履厭遠遊 荷鋤懶躬耕
 靴を踏むも遠遊を厭い 鋤を荷なうに躬耕に懶し
 麻靴を履いて遠くへ旅する事を厭い、鋤を担げば自分で耕すのを面倒がる

有剣任・澀 有書任縦横
 剣有るも・澀するに任せ 書有るも縦横に任す
 剣は持って居ても錆びるに任せ、書物は散らかし放題

不肯折腰爲五斗米 不肯掉舌七十城
 五斗米の為に敢えて腰を折らず 七十城を下すに敢えて舌を掉はず
 五斗の給料の為に腰を曲げるのも嫌なら、七十城を降参させるのに雄弁を                           奮うのも御免だ
但好覓詩句 自吟自酬賽
 惟好みて詩句を覓め 自ら吟じて自ら酬賽す
 但好きなのは詩句を捜す事、自作を吟じては復た其れに合わせて作る

田間曳杖復帯索 傍人不識笑且輕
 田間に杖を曳き復た縄を帯とするを傍人は知らず笑い且つ軽ろんず
 田の畔に杖を曳いて、縄の帯を締めていると回りの連中は彼の価値を知らないで、笑い且つ嘲る

謂是魯迂儒 楚狂生
 謂えらくは是魯の迂儒ぞ楚の狂生ぞと
 きゃっは魯の腐れ儒者だ、楚の気違いじゃと囃す

青・子聞之介意 吟聲出吻不絶・・鳴
 青・子之を聞きて意に介せず 吟声口を出でて・・として鳴るを絶えず
 青・の男は其れを聴いても心にも留めず、唇から出る吟声が爽やかに響くのを絶やさない

朝吟忘其飢 暮吟散不平
 朝に吟ずれば其の飢えを忘れ 暮れに吟ずれば不平を散ず
 朝吟ずれば空腹を忘れ、夕暮れに吟ずると心の憂いが晴れる

當其苦吟詩 兀兀如被酲
 其の苦吟の時に当たりては 兀兀として酲を被るが如し
 苦吟の真っ最中には、酒に悪酔いしてグデングデンに成った様だ

頭髪不暇櫛 家事不及營
 頭髪も櫛けずるに暇あらず 家事も営むに及ばず
 髪に櫛を入れる暇もなく、家の仕事も放ったらかし

兒啼不知憐 客至不果迎
 児泣くも憐れむを知らず 客至るも迎えるを果たさず
 子供がないてもあやす事に気付かず、客が来てもろくに出迎えぬ

不優回也空 不慕猗氏盈
 回也の空しきを憂へず 猗氏の盈かなるを慕はず
 顔回の貧しさも気にしないし、猗頓の富も羨ましくない

不慙被寛謁 不羨垂華纓
 寛ええ謁を被るを恥ず 華纓を垂れるを羨まず
 ダブダフの毛皮の着物を着るのも恥ずかしくないし、冠から華やかな飾り紐を垂らした人にも憧れぬ

不問竜虎苦戦闘 不管烏兎忙奔傾
 竜虎の苦しみ苦闘するを問はず 烏兎の忙しく奔傾するに管せず
 英雄豪傑が一生懸命竜虎の争いをして居るのも知らん顔、日の鳥月の兎が慌ただしく駆け巡るのも問題にしない

向水際獨坐 林中獨行
 水際に向かいて独り坐し 林中に独り行く
 水邊に独り坐し、林の中をを独りさ迷い

斬元気 捜現精 造化萬物難隠情
 元気を斬り 現精を捜し 造化万物情を隠し難し
 宇宙の根元を削り取り、自然の本質を捜し求める、彼の前に天地万物は其の秘められた姿を明かすのだ

瞑茫八極遊心兵 坐令無象作有聲
 冥范八極心兵を遊ばせ 漫ろに無聲をして有聲と作さ令む
 彼は果て知れぬ大空の角角まで、心の刃を飛ばし、其の侭に無形の精神を音声に換えるのだ

微如破懸蝨 壮若屠長鯨
 微かなるは懸けし蝨を破るが如く 壮なるは大なる鯨を屠ふるが如し
 彼の詩の細微さは吊るされた蝨を射抜く程で、壮大な物は巨大な鯨を退治する程だ

清同吸・・ 険比排崢・
 清なるは・・を吸うに同じく 険なるは崢・を排くに比ぶ
 清らかな物は天上の露を吸う蚊の様な趣があり、常識を破った物には、そそり立つ山を押し退ける勢いがある

靄靄晴雲披 軋軋凍草萌
 謁謁として晴雲披らき 軋軋として凍草萌える
 キラキラと晴れた雲が披らく様な物も有れば、ギシギシと凍てついた草が芽吹き始めた様な物もある

高樊天根探月窟 犀照牛渚萬怪呈
 高く天根に樊て月窟を探り 犀は牛渚を照らして萬怪呈はる
 時には高く天の根に樊登ったり、月世界を探検するかと思えば、時には犀の松明で牛渚の淵を照らして、草草の怪物を見つけ出す

妙意俄同鬼神會 佳景毎與江山争
 妙意俄かに鬼神と同じく会し 佳景常に江山と争う
 素晴らしい着想が沸き起こって、出し抜けに精霊と会合し、美しい叙景は何時も山河と競合している

星虹助光気 煙霧滋華英
 星虹光気を助け 煙霧華英を滋す
 星と虹とは其の光を助け増やし、靄と霧とは其の花びらを濡らし鮮やかさを添える

聽音諧招楽 咀味得大羹
 音を聞けば招楽に叶ひ 味を咀えば大羹を得たり
 其の響きを聴くと、招の音に調和し、味は自然の美味に叶っている

世間無物爲我娯 自出金石相轟鏗
 世間に物として我が娯を為す無し 自ら金石を出して相轟鏗す
 此の世に自分の楽しみとて他にはない、自ら金や磬とも云うべき吟声を出して、激しく響き合わせるだけだ

江邊茅屋風前晴 閉門睡足詩初成
 江辺の茅屋に風雨晴れ 門を閉ざし眠り足りて詩初めて成る
 川岸の茅屋を襲った風雨も晴れ、門を閉めて充分に寝て詩を完成させる

叩壷自高歌 不顧俗耳驚
 壷を叩き自ら高歌し 俗耳の驚くを顧みず
 痰壷を叩き自ら聲高く唱い、俗人の耳を驚かせるにお構い無し

欲呼君山老父携諸仙所弄之長笛
 君山の老父を呼びて諸仙の弄する所の長笛を携えせしめ
 
和我此歌吹月明
 我が此の歌に和して月明かりに吹かしめんと欲す
 君山に出現した老人を呼んで、仙人達の長笛を持って来させ、月明かりの夜に自分の此の歌に合わせて吹かせたいと思う

但愁・忽波浪起 鳥獣駭叫山揺崩
こつこつ
 但愁うるは・忽として波浪起こり 鳥獣駭き叫び山の揺れ崩れるを
 ただ心配なのは、急に浪が沸き立ち鳥獣が驚き叫び、山が揺れ崩れる事で

天帝聞之怒 下遣白鶴迎
 天帝之を聞きて怒り 白鶴を下し遣わして迎えしめん
 天帝が之を聴いて腹を立て、白い鶴を迎え遣わし賜り

不容在世作狡猾 復結飛珮還瑶京
 世に在りて狡猾を作すを容さず 復た飛珮を結びて瑶京に還えらん
 此の世で悪く賢く立ち回るのを容認せず、もう一度空飛ぶ飾り帯を締めさ
せ、珠の都へ連れて帰る事で有ろうから

射鴨詞   高啓

射鴨去 清江曙 射鴨返 廻塘晩
 鴨を射んと去くは 清江の曙 鴨を射て帰るは廻塘の晩
 鴨を射ようと出掛けるのは清い河辺の朝ぼらけ、鴨を射止めて帰るのは曲がりくねった堤の夕暮れ

秋菱葉爛煙雨晴 鴨群未下媒先鳴
 秋の菱の葉は朽ち、煙雨は晴れ 鴨の群れの下らざるに、囮は先ず鳴く
 秋の菱の葉は腐り、霧雨は晴れ上がる 鴨の群れが下りて来ない先に囮は鳴き立てる

草翳低遮竹弓・ 水冷田空鴨多痩
 草の影は低く、竹弓の・を遮し 水は冷たく田は空しうして鴨多く痩せたり
 草むらの影は引き絞った弓を低く隠し、水は冷たく田は空っぽで、鴨は大方痩せ細っている

行舟莫來使鴨驚 得食忘猜正相闘
 行き交う舟の來たりて鴨をして驚か使むる莫く、食を得て猜うを忘れ正に相争う
 やって来た鴨を驚かす行き来の舟も全く無く、餌を見つけて疑う事も忘れて、取り合いをして居るところだ

觜・・ 毛・・ 潜気一發那得知
 嘴は・・ 毛は・・ 潜気の一度発するを那んぞ知るを得ん
 嘴はガツガツ 羽毛はモサモサ 隠された仕掛が飛び出そうとはどうして気が付くものですか


    第十二章 清

 一六七三年に約三百年続いた明も満州族「金」に滅ぼされ、後金の後、改めて「清」と成る。
 そして一六七三年と云えば、日本では一六五一年に由比正雪の乱があり、赤穂老士の討ち入りが一七0二年で有る。
 元禄時代より明治維新を経て、大正元年の一九一二年に孫文が臨時政府を樹立するまでの二百四十年間である。
 この頃になると日本でも漢詩作者が多く輩出する様になり、頼山陽 江馬細香 梁川星巌 など枚挙に暇がない。
 亦この頃日本では時代の変わり目で、吟詠界で良く取り上げられる悲憤慷慨調の詩も多くはこの頃の作品で、大陸では王魚洋 銭牧斎 屈大均 などこれも数え切れない程の作者が居る。

詠春秋戦国人物十二首禄二首 日本 頼山陽

管夷吾

姫旦経緯密 復見九州裂
 姫旦経緯密なり 復た見る九州の裂けるを
 周公の定めた制度は実に緻密だったが、時久しくして九州は再び分裂した

海岱政令新 匡時須俊傑
 海岱の政令新たに、時を匡て俊傑を須う
 斎の國には名君桓公が出て政令を一新、遂に天下を一匡した

夏葵吐異葩 不襲桃李徹
 夏葵異葩を吐き、桃李の徹に襲らず
 かの葵の丘の會盟に於いては、人徳を持って民を化する王道とは趣の変わった、力を持って仁を仮る覇道の花を開いたが、是れ悉く管夷吾の力に因るものである

公孫僑

弾丸困四戦 百練出利器
 弾丸四戦に苦しみ 百練利器を出す
 鄭は狭小な國で四方の隣国と闘って苦しんだが、百練の利器の如き子産が出て國の安泰を得る事十年に及んだ

應變如斬亂 鋤豪如擠墜
 変に応ずる事乱を斬るが如く、豪を鋤く事 墜を擠とするが如し
 彼子産は変に応じて事を処理する、恰も快刀乱魔を断つが如く、豪強制し難き族を除く事、将に落ちんとする物を押し落とすが如く、何の苦も無く排除した

鑄刑争錐刀 未免傍観刺
 刑を鋳て錐刀を争うと 未だ免れず傍観の刺しりを
 只刑書を鼎に鋳て常法とした一事は「民をして小事小利を争うの端を開き乱獄賄賂因って起こるところだ」と傍観者たる晋の賢太夫、叔向の譏りを免れなかった。


夏夜  日本 江馬細香

雨晴庭上竹風多 新月如眉繊影斜
 雨晴 庭上竹風多く       新月眉の如く繊影斜めなり

深夜貧涼窓不掩 暗香和枕合歓花
 深夜涼を貧って窓掩はず     暗香枕に和す合歓の花

・ この詩の転句「窓不掩」は、窓が主語の様に見えて、漢文法には叶はぬ かに見えるが、然しこの「窓不掩」場合も見方に依っては語法に叶はぬ事 柄ではない。
  我不掩窓の語順から見れば窓不掩は不自然だが、別に強 調文の語法として我把窓不掩の語法があり、我把を省略し たと見れば理解できる。

薬物 清 王魚洋

薬物知何益 愁多老病侵
 薬物何の益かあるを知らん 愁い多くして老病を侵す
 薬が一体何の役に立とうか、愁いが多くて老いと病に身は侵される

眼枯兒女涙 心折短長吟
 眼は枯れる女児の涙 心は折じく長短の吟
 眼は兒や妻を思う心に涙も枯れ、心は長短の苦しい句作りに碎けて仕舞う

郷信何時達 秋涛日夜深
 郷信何れの時にか達せん 秋涛日夜に長し
 郷里からの手紙は何時着く事だろう、秋の波浪は日に夜に水かさを増して深くなる

巴猿殊造次 棲絶叫楓林
 巴猿殊に造次なり 棲絶楓林に叫ぶ
 巴山の猿は実に慮外な奴、極度に悲しげに楓の林の中で叫ぶ

徐州雑題三首録一 清 銭牧斎

彭城十日水奔流 太守行呼吏卒愁
 彭城十日 水奔流し       太守は行くゆく卒吏は愁う
 徐州城下の黄河の水が十日間も奔流し、すは大変と太守は吏卒を呼び、吏卒は愁いたものである

河復詩成無一事 羽衣吹笛坐黄樓
 河復の詩成りて一事無し     羽衣笛を吹いて黄樓に坐す
 それが蘇東坡先生が徐州太守と成られて、黄河の治水をされ、河復の詩を作られてからは、一度もそんな事がなかった。
 蘇東坡先生は夜羽衣を着て笛を吹いて黄樓の上に座し、友人と相見て笑って「李白死してより此の世に此の楽しみ無き事三百余年」と言って風流を愛されたそうだ。

偶成  清 呉海村

関河蕭索暮雲酣 流落郷心太不堪
 関河蕭索として暮雲酣なり    流落せる郷心は太堪ず
 山河厳しく、暮れ方の雲が盛んに立ち篭める。零落して故郷の思い甚だ堪え難いものがある

書剣尚存君且往 世間何物是江南
 書剣は尚存す 君且く往まれ   世間何物かこれ江南
 たとえ落ちぶれても書剣だけは離さず持参している。君よ、暫時留まって我と語ろう。世間ではあの江南地方は余程良い処の様に云うが、何が江南、一向に詰らんさ(此処だって捨てた物ではない)。


    第十三章 現代

 清以後現代と言えば、孫文の後毛沢東に依る中華人民共和国と言う事になり、日本では大正、昭和と云う時代である。
 大陸に於いては共産革命の当然の方策として歴史の否定による古典文化の否定、これに時を同じくして二十世紀初頭の文学革命で「古典文学の打倒と写実文学の建設」が叫ばれてから、口語文は文語文に取って代わった。
 そして更に文字も極度に簡略化が為され、日本で用いる漢字とは相当に異にするので、同一文字の使用とは云い難い状況であるが、これも文字教育の面から看れば、当然の方策と言えよう。
 然し政権の異なる台湾省に於いては旧漢字が用いられて居る。
 依って詩も次第に口語体の新詩が盛んに成ったが、皆無に成ったと云うのではなく大陸各地に詩詞社が有り、細々の様だが脈脈と続いている。
 日本に於いても大東亜戦争の敗戦に依って前者と似通った状況となって、漢詩は一時期顧みられなく成ったが、細々では有るが愛好者が居るという状況で、同好者の集まりである吟社として耳にするものは

黒潮吟社   主宰  高橋藍川  和歌山 創始者没
琢社     主宰  中村舒雲  東京  創始者没
山陽吟社   主宰  田中呂南  広島県 創始者太刀掛呂山氏没後に門                     弟が引き継ぐ
滄浪吟社   主宰  米澤葵堂  大阪  黒潮吟社創始者高橋藍川氏没                     後に門弟が創設
心聲社    主宰  服部承風  愛知県
二松詩文會  主宰  石川濯堂  東京
漢詩人社   主宰  進藤虚頼  東京
鳴鳴吟社   主宰  森崎蘭外
日中友好漢詩協会 会長 柳田聖山 京都市左京区
雅友吟社 代表 益田愛鄰 広島 山陽吟社創始者太刀掛呂山氏
没後に門弟が創設
等があり、この他に筆者の聞き漏れや会員が更に吟社を開いていると聞き及ぶのでこれよりは多いと思うが、独りの指導者が指導できる人数も自ずと限りが有るので、そう多くの愛好者が居るとは思えない。
 大陸の状況は詳しくは解らないが、詩よりも詞を好んで作ると云われ、廣東省廣洲市に廣洲詩社と言う詩社があり、旬刊で「詩詞」と言う出版物が有るので、其の中の作品も幾つか紹介しよう。

題画       日本 高橋藍川

林下茅廬属釣翁 溪聲禽語指呼中
 林下の茅廬釣翁に属し      渓聲禽語指呼の中

悠然占斷閑天地 竟向人間路不通
 悠然占断す閑天地        竟に人間に向かって路通ぜず

 林の中の茅葺きの庵は釣翁の住まいで有ろうか、谷川のせせらぎや小鳥の鳴き声が手の届く程身近かに聞こえる、ゆったりと占める此の静かな天地、遂に下界とは交通も途絶えて路が通じていない。

夜坐雜吟  日本 高橋藍川

浙瀝風聲送晩鐘 門前老樹暮烟封
 淅瀝たる風声晩鐘を送り     門前の老樹に暮烟は封ず

雲邊早見一匳月 寒影正懸江上峰
 雲辺早に見る一匳の月      寒影正に懸かる江上の峰

 淅瀝と物寂しく吹く風に乗って夕刻を告げる鐘の音が聞こえて來る。門前の秋に逢った樹は葉を色付かせて居るが、そこには夕方の靄が立ち篭めて居る。雲の辺では早くも一つの鐘のように丸い月が顔を覗かせて居る。其の寒々とした影は今正に江の上に聳え立つ峰に懸かって出ようとして居る。


有感示人   日本 高橋藍川
 感有りて人に示す

風流占断大乾坤 一旦擲抛斯道尊
 風流占断す大乾坤        一旦擲抛斯道の尊きを
 風流な詩道は大きな天地をも領有し得る物である。だがその道の尊さを忘れて仕舞ったかの如く、一朝に投げ出して仕舞うとは

底事吟宋無気慨 低頭拱手媚権門
 底事ぞ吟宗気慨無く 低頭拱手して権門に媚びるを
 其れはどうした事だろう。多くの吟社の宗師達のだらしなさに有るのでは
こまね
無かろうか、彼らはただ頭を下げ手を拱いて権勢ある人に媚び諂って居るからではないか。

訪玉邨翁    日本 太刀掛呂山

一謁清容情更濃 十年傾倒始相逢
 清容に一謁して情更に濃やかに 十年傾倒して始めて相逢う

聽詩問画恍移・ 日落白華山寺鐘
 詩を聴き画を問い恍として時を移せば、日は落つ白華山寺の鐘に

  清容 清楚成る容姿 傾倒深く心を寄せる
  聴詩問画 詩や画の事を聴き問う事 此の句法を互文と云い対句の一種

家        日本 太刀掛呂山 録山陽風雅

吾家生事太凄涼 環堵蕭然樹竹荒
 吾が屋の生事甚だ凄涼 環堵蕭然として樹竹荒る

老屋三間徒四壁 陳編満架且堆床
 老屋は三間 徒四壁のみ 陳編は棚に満ち且つ床にうず高し

青苔紅葉無人間 薄酒残肴有婦蔵
 青苔紅葉人の問う無きも 薄酒残肴婦の蔵する有り

一任終年窮鬼罵 個中安頓鼓吟腸
 さもあらば有れ 終年窮鬼の罵るは 個中に安頓して吟腸を鼓せん

自況       日本 太刀掛呂山
煎薬漫思生有涯 老来蠧簡眼纔遮
可憐痩損貧家菊 従過立冬初着花

霜朝散策   日本 太刀掛呂山
暁寒撫面稟霜花 曳杖穿林登隴斜
一種風情入冬好 路傍替菊嚢吾花

親鸞讃詠   日本 太刀掛呂山
九齢剃髪學天台 廿歳孜孜心骨摧
一宵六角堂中夢 導入空師念仏來

秋篠寺     日本 太刀掛呂山
雑樹擁林秋篠寺 平城古刹湛幽玄
吾生亦伍詩人未 來謁温柔技藝天

題書斎     日本 服部承風
一巻図書一現身 随時随所共相親
忽然得寵忽然失 也似内家叢裏人

  内家叢裏 宮殿内の宮人達 「身是三千第一名 内家叢裏独分明」

            時事偶感  日本 中村舒雲
方便一時同死生 百年岐路自分明
鴻溝難劃長城北 黒水今聞盪激聲
 ソ連と中国は同じ共産主義で、同一歩調を取り約盟して居ても、一時の方便に過ぎず結局は分離する事は必定だ。
 もう黒龍江辺りでは問題を起こしているではないか。
  鴻江 漢の高祖と楚の項羽が天下を二分した両国の境界 国境意味

 小説下谷の家の中に掲載されて居た作品 日本永井荷風
孤碑一片水之涯 重経斯文知此誰
今日遺孫空有涙 落花風冷夕陽時

艶体詩成払壁塵 竹西歌吹買青春
二分明月猶依舊 照此江湖落魄人
  二分明月 明月三分の二の意味 徐疑の「憶楊州」の詩に「蕭嬢瞼下難      勝涙、桃葉眉頭易得愁。天下三分明月夜、二分無頼是楊州。」      「天下の明月を三分したら、其の三分の二は花柳界を照らして      居るとは面白くない」と云っている。

待春     日本 森鴎外
南廂偶坐悩沈吟 目送凍禽鳴出林
唯喜簾前風梢暖 待花心是待春心

題画竹   日本 小宮水心
淋漓墨気翆雲流 半壁清陰晝猶幽
三伏臥遊涼一枕 畫中風竹早生秋

忘却の記念の為に    中国 魯迅
慣于長夜過春時 挈婦将雛鬢有絲
 新春に成っても未だ夜は長く寒い。其れを眠れずに過ごす事が多い、妻子を引き連れて上海の租界に逃れての侘び住まいで、両鬢に白い髪が増えるばかり

夢裏依稀滋母涙 城頭變幻大王旗
 私の親しくして居た青年が殺された。殺された母親の涙がさながらに思いやられる。そして刑場の近くの城の上には、権力を象徴する国旗がはためいて居るのだ

忍看朋輩成新鬼 怒向刀叢覓小詩
 友人達が恨みを飲んで亡者と成るのを、じっと見ているのは忍びない。無性に腹が立って武力の弾圧に反対し、せめて拙い詩を作って鬱憤を晴らそうとした

吟罷低眉無写處 月光如水照緇衣
 然し小詩を吟じて仕舞っても、眉を垂れてしおしおする他はない。これを写して発表する場所も無いのだ、折しも月の光が水の様に冷たく私の黒い上着を照らしている。

前記魯迅の作品に次韻して 中国 郭抹若
又當投筆請纓時 別婦抛雛斷藕絲
 又当に筆を投じ纓を請うべき時なり 婦に別れ雛を抛って藕絲を斷つ

去國十年餘涙血 登舟三宿見旌旗
 國を去って十年涙血を餘し 舟に登って三宿旌旗を見る

欣将残骨埋諸夏 泣吐精誠賦此詩
 欣んで残骨を以て諸夏に埋めん 泣いて精誠を吐いて此の詩を賦す

四萬萬人斎蹈・ 同心同徳一戎衣
 四万萬人斎しく蹈励 同心同徳一戎衣

 内容も魯迅を継承すると共に、暗に其れに対抗する意図が込められて居り、郭抹若は魯迅よりずっと後輩だが、当時は論敵として批判者の立場に有った。 魯迅が「妻を挈へ雛を連れ」逃げ廻って居たのに対し、郭抹若は「婦に別れ雛を抛って」と云っている。
 郭抹若は国民党政府から睨まれ、逮捕命令が出され欠席裁判で死刑の宣告が下されたが、彼は日本人の妻と一緒に日本に亡命して、長く安穏に生活していた。
 昭和十二年蘆溝橋事件が起こると奮然として日本を脱出して、祖国の難に赴いた。
 同時に国民党政府の特赦に依って死刑を取り消され、その時に魯迅の詩に次韻した作品である。

廣洲詩社「詩詞」一九八七年より収録
飛往東京  中国 王越
竟上層霄把太清 茫茫東海海雲生
無端憶得詩仙句 我欲蓬莱頂上行

歓迎台湾老友歸來 中国安徽志中
東籬對菊喜重逢 問暖嘘寒若梦中
忘却巴山風雨夜 談笑指呼九州同

  巴山夜雨晩唐 夜雨寄北 李商隠参照

歌吟十三大同韻七絶 録二首
解放聲高好勢頭 吸収引進廣而憂
拿來主義非虚話 両個文明豁遠謀

商品経済尚富鐃 搾取貧渥着力愀
幹部青年是上策 官僚主義抜根鋤

山村吟   中国湖北 李鳴階
歓歌飛出小康家 昔日貧農今有車
大娉房添新彩電 小姑身着的綸紗
晨耕猶覚機聲揚 夜讀方嫌笑語譁
白髪村翁閑不在 愛尋野老話桑麻

賀白藤湖農民度暇村開業三周年 呂坪湖水秋色映雲天 玉宇涼樓矗岸前
度暇村中文有苑 白藤山外水無辺
金波閃爍含朝日 青靄迷濛隱夕烟
蒼海曾経多険浪 桑田拓就建芳園

香港旅游有感   香港 李君毅
一湾水沸百湾寒 一徑成名萬徑荒
獨悼扁舟西海去 未名灘上沐秋涼
 、一湾謂浅水湾、一徑謂麦里浩徑。 東海乃九龍半島乃東、西海在半島西。 西海游人少。

車過臨潼  陜西省 陳慶餘
驪山晩照関中景 峰火戯候江山傾
世人懐古應借鑑 莫學昔日誤國卿
中国人は現代語に依って作詩できるが、日本人には仲々厳しく、日本人が新しい言葉を使うと往々にして日本製漢語に陥り易い。
 そこで類例のような現在の中国の詩を讀んで其の言葉を頂けば、充分我々にも使用できる。
 日本国内の文献ばかりに頼って作詩をしていると、往々にして自分勝手な言葉を作りがちで、中国人に理解されない言葉を使って漢詩を作っても、其れは日本製英語で英文を綴るのと同様の事で、漢詩は「中国文化の延長上にある」との認識に立って居ない証拠である。
 なお和語の用い方に付いては基本篇に対応の仕方が述べられて居るが、先ず中国語で該当の言葉があるかどうかを捜し、有れば其れに依り、無い場合は注を付けて用いれば良いと言われている。
 また間違いを侵さない為にも、国内の文献(始んどが古典か古典を拠り所にして作られた現代の作品)ばかりに頼らず、大陸の紙面に直接手を触れる様心掛けるべきで有る。
 亦漢和辞典の他に中国本土で発行された、中国人の為の国語辞典を座右に置いて、漢和辞典の意味と中国の其れとの違いを確認すると良い。

             完



 巻尾に誌す
 どうやら曲がりなりにも辻褄を合わせたが、ただ恥ずかしい事に、理屈をあれこれと述べても、未だ門にも辿り着けないと言う厳しい現実がある。
 自他共に許す時を待っていては、恐らく一生無理だろうから、敢えて恥を覚悟で上梓する事とした。
    著者 逍雀 中山榮造

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対聯漢俳漢歌自由詩散曲元曲漢詩笠翁対韻羊角対填詞詩余曄歌坤歌偲歌瀛歌三連五七律はこの講座にあります