siron02詩を作る態度(私の場合)    填詞詩余楹聯  此方からも探せます

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詩を作る態度−私の場合
 どんな事を詩にするのか?尋ねると、論語の語句を引いて「詩は志を言う」と言う返事が返ってくる。自分の心にある物事を寫せば良い!とは誠に簡単なようだが、なかなかそうも往かない。
 私は日本人だから日本人の作品集を見てみると、実に雑多で却って分からなくなる。花見をしながら酒を飲み詩を作る・・の類。天下国家を嘆く・・悲憤慷慨・・大言壮語の類。膏っ気の抜けた・・神仙思想の類。そしてもう一つ・・重箱の隅を突っつく様な、などなど凡そ四っか五っのパターンに類別される。
 実のところ私も他人様の真似をして、其の類をせっせと創った。だが私にはどれも縁が無いことばかり。花見をして酒を飲むなど悠長な気性ではないし、天下国家を嘆くなどとんでも無いことだし、重箱の隅をつつくのは嫌いだし、膏っ気は未だ有るようだし、どれも私には「絵空事」でしかあり得ない。
 実のところ私は、お金は大好きだし、ホラも吹くし、異性も好きだし、妬みもするし、気は小さいし、直ぐにのぼせるし。だったらこの、有りの儘の自分を基にして詩を作れば良いではないか!それなら底が割れることもないし、絵空事になることはない。
 でも私は少しばかり背伸びをしている。

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詩を作る態度−私の場合 其之二
 私は詩の題材として、日常の有りの儘を写す事にしている。だが、有りの儘の姿を写したからと言って、其れだけでは「詩」にはならない。詩とは心の発露であって、心に何事も無ければ詩は出来ないとも言える。
 どんなに稚拙な言葉であっても、思うところが有れば「詩」で、思う所が無ければ、幾ら美辞麗句を書き並べても、言葉遊びでしかない。
 人が時間の経過の中で、何を思うのか?思わないのか、は、個人個人の心の有り様に帰着する。
 嘗て竹の子の詩詞を幾篇か作った。八百屋の店先の竹の子を見て、子供の頃を思い出し、売って小遣い銭を稼いだことを思い出した。雪折れの竹と、若い頃の世間知らずを重ね合わせ、根曲がり竹の話を聞いて壮年の同僚を思いだし、枯れ竹と自分の人生を重ね合わせもした。
 だが世間一般には、景を写すだけで、心のない作品も「詩」の範疇に入れられている。
@景を写して景と成る。観光案内の類である。
A情を述べる言葉は用いているが、実は景を述べているに過ぎない。悲憤慷慨喜怒哀楽の類である。
 これら@Aの作品と、心の発露を写した作品とは、基本的に姿勢が違うので、分けて扱うようにしている。

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詩を作る態度−私の場合 其之三
 心の発露は目を瞑っていても、横になって枕をしていても湧き出る。また景を見て、心の奥底にある思いを導き出す事もある。眼前の景は思いを導き出す働きをするが、異なった景に触れても、同じ思いを導き出す事も有るのだから、心と眼前の景とは同一ではない。
 詩詞の鑑賞者は、景を読んで内面の心を探ろうとするが、詩詞の創作者は、心が既にあって、景は其れを演出するための小道具である。だから同じ心の思いを海の景を写して表現する場合もあるし、山の景を用いて表現する場合もある。即ちどちらが適切であるか?に依る。
 心に対して景は演出の小道具であるのだから、景が余り力強くなるとその分、心が陰に隠れる事となる。その案配が肝要である。
 私は、心を主、景を従として、その案配に注意している。

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詩を作る態度−私の場合 其之四
 詩を創作するとき、何を一番に探すのでしょうか?其れは自己の思いです。
 自己の思いは何処から出てくるのですか?飯を食っている時でも、テレビを見ているときでも、人と話しているときでも、ふっと脳裏を過ぎります。
 もう一つ、物見遊山の時です。自然の景物を見、歴史を感じ、談話を交わし、一寸気を休めた時、突然に脳裏を過ぎります。
 何れも咄嗟に捕まえないと消えて無くなります。
 自己の思いが見つかったらどうするのですか?小気味よい言葉に綴る!是が即ち「詩」です。
 言葉に綴るとは何を言うのですか?思いを表現するために都合の良い着物を着せるのです。新緑と残桜を書いて、時間の推移と新旧の交代を表現し、梵鐘を登場させて、無情を表現するなど、表現の方法は千差万別にあります。
 景物の描写は、自己の思いを表現するための方途で、目的では有りません。是を弁えませんと、何を言はんとするのか解らぬ作品が出来てしまいます。
 例えば山登りをしていて、自己の思いを掴み取ったとします。其れを題材に詩を作ろうとします。その日の行程を有りの儘に表現します。是では主客逆転です。
 景物描写は詩情表現の手段なのですから、山登りをしたなら山を描かなければならないと言う訳ではありません。海を描いた方が良ければ海を描けばよいのです。

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詩を作る態度−私の場合 其之五
 漢詩と云うと、えらく難しい言葉で綴った詩歌と云う印象を持つが、私はそうは思わない。中國人が通常使う文字が漢字だから、伝言板に書くときも、手紙を書くときも、小学生の連絡帳も漢字で書くと云うことになる。
 当然の事ながら、日本なら漢字仮名交じりで書く俳句や短歌の詩歌の類も、中国人なら漢字で書く。俳句短歌が、小難しい事ばかり書いている訳ではないのと同じに、漢詩も小難しい事を書いている訳ではない。
 日本人の作品を見ると、往々にして回りくどく小難しい事を書いている作品に出会う。意味が判らぬので辞書を引くと、此が亦難しい説明が付いていて、作者に尋ねると得意然としている。
 こういう作品を「文字におんぶした作品」云う。私は自分の身の丈の作品を好しとしているので、あんたはそんなに偉いのか!と云いたくなる。
 日本人の作品には、文字におんぶした作品が実に多い。典型として矢鱈に典古を入れる人が居る。典古を入れるには、入れるだけの土台が必要で、典古を取り除いたら、只のガラクタに成って仕舞うようでは、おんぶしていると云わざるをえない。
 嘗て日本漢詩界の大御所が、当用漢字だけで漢詩を創った!と絶賛された。だが中國古典の代表格「論語」は千五百二十字の文字で綴られ、四百字の文字が有れば、九割強の文は表記できると云われている。日本の漢詩作家が、当用漢字二千八百字で綴ったと云う事にそれ程の意義が有るであろうか?意義と言えば、当用漢字二千八百字もの文字を使って、ようやっと作った!と言い換えるべきだろう。
 詩歌の本質は、平易にして人の心を擽る事に有る。

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詩を作る態度−私の場合 其之六
 日本人の作る詩歌に比べて、現代中国人が作る詩歌作品は、実に読みやすい。
 簡体字だから読みにくいとも云う人もいるが、日本の文字と中國の文字を一体化させようとするから出る苦情で、別々の國の文字だとすれば何ら支障はない。
 中国人の作品は、単刀直入に述べて、綴りは文法通りだから、平易に内容が理解できるのである。文字さえ覚えてしまえば、読むことにそれ程の苦労はない。
 読みにくい詩句には概ね二通り有り、文法面から見た構成が複雑な場合と極端に個人的思考の強い作品も読みにくい。
 難しい理念を難しい句で表現するのは誰にでも出来る。如何に易しい句で構成させるかが巧拙の分かれ道だ。独りで納得するのなら、文字として表そうが表すまいが関係がない。勿論わざわざ漢詩を創る必要などない。だから私は常に読者を意識している。
 十才童子の作品も九十才古老の作品も、同じ俎上に載せることが出来るのが詩歌だと言える。

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13-8/5
詩を作る態度−私の場合 其之七
 中国語の手紙に疎い日本人には、詩詞の応酬が大いに役に立つ。例え手紙が書けたとしても、ラブレターでもない限り、応酬がそう長く続く筈もない。手紙は書面から嘘八百を見抜くことは難しいので、中身は余り当てにならないが、詩歌作品は、数読すれば嘘か本当か直ぐに判るので、相手の真意を読み間違えることは少ない。
 何れにせよ詩歌仲間の間で嘘を憑いても詮無いことだから、嘘を書き連ねる必要もない。前置きはこれくらいにして本題に入ろう。
 詩題に「次韵」「和韵」「用韵」等がある。此の詩題の基本にある主旨は、応酬である。応酬と云っても、相手が実在するとは限らない。だが、何れにせよ「次韵・和韵・用韵」等の詩題を冠した場合は、相手を意識して話し掛ける態度で無ければならない。
 応酬詩には3ッの要素がある。
1・・・相手の作品を読んで、その作品の一部か或いは全部か?何れにせよ同感する要素を選出して、同感の意思表示をする。
2・・・私はこうなんだ!こう思って居るんだ!と云う自己主張をする。
3・・・両者に共通する事柄を探し出して述べて結びとする。
 応酬詩の詩題なのに、中身は自分勝手なことばかり書かれていては、貰った方は一つも嬉しくない!

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13-10/24
詩を作る態度−私の場合 其之八
 私が三十歳半ば頃に両親は他界した。漢詩の創作に手を染めたのは、それからずっと後のことだが、それでも父母への感情はかなり強く残っていた。父母への情は御しがたく、筆を執ると堰を切った水の如く溢れ出して、直ぐにページが埋まって仕舞った。
 父母への情も已に過去となった今、たまたま作品の切れ端に出会うと、言葉遣いの上手下手とは別に、自分よがりな、自分自身に填り込んで、読む人をしてなんとも言い知れぬ鬱陶しさに、自分自身で呆れる始末である。
 何故なのか?それは自分のことが精一杯で、読んでくれる人のことなど微塵も考慮されて居なかったからなのだ。自分の作品を自分が読んで、何が読者の立場だ!と云うかも知れぬが、同一人物であっても少し日を措けば、作者と読者は各々別の人格となるのだ。
 だからと云って日を措いてから作り直していては埒があかぬ。今すぐと言うには先ず、物事を客観視する事から始まる。これが今の私に言えることだ。
 数年前、長江旅游に出かけた。だが未だにその時のことを作品にしていない。帰宅後多忙を窮めたことも有るが、それ以上に主観が蔓延りすぎて終始が付かなかったこともその一因である。

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13-11/21
詩を作る態度−私の場合 其之九
 趣味も一つ事を長くしていると、自己陶酔に陥りがちである。作品の巧拙然り、格律然り、テクニック然りである。
 どの本の誰々がこう書いていたとか、誰がこう言っていたとか、虎の威を借りる狐に陥りがちだ。また止めればよいのに屋上屋を重ねて持論を展開したくもなる。この類に遭遇すると、制しきれず反論したくなる。未だ生臭さが残っていたのかと、安心もするが、己のくだらなさに呆れもする。
 自分の知っているのは、千の中の一つか二つなのに、何でも知っているかのような錯覚に陥る。「知之為知之、不知為不知」は良い戒めだ。

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13-11/21
詩を作る態度−私の場合 其之十
 漢詩の創作に手を染めて二十年近くになるが、その殆どは散逸して、たまに本に挟まったのが出てくる事がある。タイムカプセルの封を解いたように、その当時の様子が思い起こされ、過去に行くことが出来る。
 十年前と現在と・・・巧拙はどうかと聴かれれば、「どっちとも言えない!」と云わざるを得ない。十年経っても進歩しないのかと聴かれれば、そうとも言えるし、そうで無いとも言える。
 漢詩詞を綴る規約や手法は、順序立てて学べば、そんなに複雑でもなく難解でもない。だから趣味の域で学んだとしても数年でほぼ完了する。だが実際には、何年掛かってもなかなか思うに委せないのは、何を表現しようかと云う、個人の内面心情に拘わる問題とテクニックが成熟しないからである。
 個人の内面心情とテクニックとどちらが先かと云えば、心情が主でテクニックは従と言える。前稿の「十才童子の作品も九十才古老の作品も、同じ俎上に載せることが出来るのが詩歌だと言える。」の言葉が如実に語っている。
 「十年前の作品と今の作品の優劣は一概に言えない」、と云ったのは、十年前は体力も充満していたし、欲望が漲っていた。だが今は体力も大分落ち、欲望も大分凋んでしまった。だから以前は作品に力強さが感じられたが、今では屁理屈が多くなった。
 壮年と年寄りの狭間だからだろうと、自分自身で勝手に納得しては居るが、それは今の自分と作品とがが乖離している状態と言えるだろう。
 而六十耳順、と云うが、有りの儘を受け止める事が出来る心構えが欲しいものだ!。

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