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蘇李体
蘇李体とは、前漢の蘇武と李陵の二人を指し、この二人の贈答詩を「蘇李体」と言う。梁代の蕭統の「文選」に収集されている。二人の詩は何れも五言詩であり、五言詩の創始者で有ると言われるが、後生に偽作されたものであるという説も有る。
彼らの詩は、風格は素朴で感情が込められ、内容が豊かであるという点で、蕭統の文選に収集されている「古詩十九首」に似ているので、後世の詩人達に重視されている。
漢・蘇武
京兆尹杜陵の出身。父の任子で郎となり、侍中などを務める。天漢元年(紀元前100年)、蘇武は中郎将として匈奴への使者に任じられる。副使は張勝で、常恵らが付き従った。
この時に、単于の下にいる漢の降将虞常が、匈奴の?王が共謀して、同じく匈奴に降って重用されていた衛律を殺し単于の母を脅迫して漢に帰ろうと画策した。両名は張勝にこの話を持ちかけ、張勝はこれを許し援助した。
しかし虞常・?王は失敗して単于がこの件を知り、蘇武を尋問しようとした。蘇武は自決を図ったが衛律の手当てによって一命を取り留めた。単于は彼を脅して匈奴に帰順させようとしたが、蘇武が拒んだため、常恵らと共に抑留された。
彼は穴倉に飲食物も無く捨て置かれたが、雪を齧り節の飾りについている毛を食べて生き長らえた。やがて、蘇武は北海(今のバイカル湖)のほとりに移され、オスの羊が乳を出したら帰してやると言った。
彼はそこで、野鼠を穴を掘り、草の実を食うなどの辛酸をなめたが、単于の弟に気に入られて援助を受けて生き長らえ、匈奴に屈することがなかった。
蘇武とはかつて共に侍中を務めた仲であり、今では匈奴に降り厚遇されていた李陵が降伏するよう説得したが、蘇武は屈しなかった。李陵は陰ながら蘇武を援助した。
匈奴は漢に対しては蘇武は死んだと言っていたが、抑留19年目、漢の武帝が亡くなり、昭帝が匈奴と和親し使節を派遣した時に、常恵によって蘇武が生存していることが発覚し、そこでようやく単于から帰国の許可が出た。
始元元年(紀元前86年)に彼は漢に帰還し、典属国を拝命した。母は死んでおり、妻は既に他の者に嫁いでいた。後、上官桀らに従っていた蘇武の子の蘇元が反乱を企んだ上官桀らに連座して処刑され、上官桀や桑弘羊と仲が良かった蘇武も逮捕されそうになったが、霍光がやめさせ、免官だけで済まされた。
宣帝擁立に関与し、関内侯の位を賜り、張安世の薦めにより右曹・典属国に返り咲いた。神爵2年(紀元前60年)、80歳余りの高齢で亡くなった。
死ぬ以前、宣帝は蘇武が子の蘇元を失っていることを哀れみ、匈奴で軟禁された時に匈奴の女性との間に生まれた子・蘇通国を漢に呼び寄せて郎とした。また、麒麟閣には宣帝の名臣たちと並んで蘇武の像が描かれた。
蘇武の事跡等に関しては『漢書』蘇武伝がある他に、『文選』に李陵が蘇武に与えた詩3首と蘇武に答えた書と共に、蘇武の詩が4首収められている。蘇武と李陵の贈答の詩については、宋期の厳羽が記した『滄浪詩話』に「五言詩は李陵・蘇武に起こる」と記されている。中島敦の小説『李陵』にも蘇武が描写されている。
詩四首(其三) | |
結髪為夫妻 | 結髪して夫妻と為り |
恩愛両不疑 | 恩愛両つながら疑わず |
歓娯在今昔 | 歓娯 今昔にあり |
燕婉及良時 | 燕婉として良時に及ぶ |
征夫懐往路 | 征夫は往路をおもい |
起視夜何其 | 起って視る 夜の何其を |
参辰皆已没 | 参辰は皆已に没す |
去去従此辞 | 去り去りて此より辞せん |
行役在戦場 | 行役戦場に在り |
相見未有期 | 相見ること未だ期有らず |
握手一長嘆 | 手を握りて ひとたび長嘆す |
涙為生別滋 | 涙は生別の為に滋し |
努力愛春華 | 努力して春華を愛し |
莫忘歓愛時 | 忘れるなかれ 歓愛の時を |
生当復来帰 | 生きてはまさに また来たり帰るべし |
死当長相思 | 死してはまさに 長く相思うべし |
李陵
字は少卿。祖父の李広は文帝・景帝・武帝に仕え、悲運の将軍として知られた人物であり、父の李当戸は武帝の寵臣であった韓嫣を殴打した剛直の士であった。李陵は父の李当戸が若くして逝去した後に生まれた子供である。
紀元前99年(天漢2年)、騎都尉に任命された李陵は武帝の命により貮師将軍李広利の軍を助けるために五千の歩兵を率いて出陣した。しかし合流前に単于が率いる匈奴の本隊三万と遭遇し戦闘に入る。李陵軍は獅子奮迅の働きを見せ、六倍の相手に一歩も引かず八日間にわたって激戦を繰り広げ、匈奴の兵一万を討ち取った。そのことを部下の陳歩楽を遣わして、武帝に報告させた。だが、さすがに李陵軍も矢尽き刀折れ、やむなく降伏した。
李陵が匈奴に降伏したとの報告を聞いた武帝は激怒し、郎中に任命されていた陳歩楽を問詰し、陳歩楽は自決した。群臣も武帝に迎合して李陵は罰せられて当然だと言い立てた。その中で司馬遷だけが李陵の勇戦と無実を訴えたが、武帝は司馬遷を李広利を誹るものとして宮刑に処した。
匈奴の右校王として
李陵の才能と人柄を気に入った且?侯単于は李陵に部下になるように勧めるが李陵は断っていた。だが武帝は匈奴の捕虜から「李将軍が匈奴に漢の軍略を教えている」と聞かされた。そこで、激怒した武帝は李陵の妻子をはじめ、祖母・生母・兄と兄の家族、そして従弟の李禹(李敢の子)一家らをまとめて皆殺しにしてしまった。
実際は李陵より先に匈奴に帰順した元・漢人将校の李緒という将軍の事だったのである。一族の非業の死に嘆き悲しんだ李陵は憤慨し、その李緒を殺害した。李陵は後に且?侯単于の娘を娶って、その間に子を儲けた。彼は、そのまま匈奴の右校王となり、紀元前74年に没した。
匈奴の王女との間に儲けた李陵の子は呼韓邪単于の時代に、別の単于を立てて呼韓邪単于に叛き、呼韓邪単于に斬られている。
かつて匈奴へ使節として赴いた人物の中で、李陵とは対照的に漢に忠節を貫く頑な態度を取ったのが、かつて李陵とともに侍中として武帝の側仕えをした蘇武であった。李陵は節を全うしようとする蘇武を陰から助けている。
前漢 李陵
徑萬里兮度沙漠,爲君將兮奮匈奴。
路窮絶兮矢刃摧,士衆滅兮名已崩。
老母已死,雖欲報恩將安歸。
注:崩;同義語を充当
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