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太康体

 太康とは晋の武帝の年号(紀元前280から289年)で有る。この時期の詩人は、左思、潘岳、張載、張協、陸機、陸雲などが居る。この時期から、漢・魏時代の素朴な詩風を一変して、詩句の配置や修辞法が重視され、るようになった。南朝時台の理論家、鐘エは、この時期の詩を、復興時期と称している。

  詠史 左思
鬱鬱澗底松,離離山上苗。以彼径寸茎,蔭此百尺条。
世冑躡高位,英俊沈下僚。地勢使之然,由来非一朝。
金張藉旧業,七葉珥漢貂。馮公豈不偉,白首不見招。

 

  赴洛道中作二首之一 陸機
遠遊越山川,山川脩且廣。振策陟崇丘,案轡遵平莽。
夕息抱影寐,朝徂銜思往。頓轡倚嵩巌,側聴悲風響。
清露墜素輝,明月一何朗。撫枕不能寐,振衣獨長想。

 

潘岳(はんがく、247年 - 300年)
 潘岳(はんがく、247年 - 300年)は、西晋時代の文人。字は安仁。中牟の人。 陸機と並んで西晋時代を代表する文人であり、類稀な美貌の持ち主としても知られている。 潘岳の作る文章は修辞を凝らした繊細かつ美しいもので、特に死を悼む哀傷の詩文を得意とした。 愛妻の死を嘆く名作「悼亡」詩は以降の詩人に大きな影響を与えた。

 西晋の外戚である楊氏出身の妻を娶っていた。楊氏没落後も楊氏のライバルであった賈氏の賈謐に才能を惜しまれ「賈謐二十四友」として引き立てられた。しかし新たに後ろ盾となってくれた賈氏も司馬倫のクーデターの際に一族皆殺しにされてしまう。その後司馬允がクーデターを起こし失敗した際に共謀していたと見なされて親友の石崇などと共に処刑された。

 後塵を拝すの故事に関連した人物である。字は安仁.開封(中牟)の出身,潘岳と陸機は常に比較され話題となる.徹底した現実主義で現実的利益の為には同義的避難は省みない,文学においても徹底した技巧主義であり,陸機は偉丈夫なのに対し潘岳は非常な美男子で外出すると,若い女たちが手を繋ぎ通ることを遮り,果物を投げつけて車いっぱいになったと言う。

 常に陸機と併称して『潘陸』と呼ばれる.南方出身の陸機に対し,北方文人の潘岳は自我中心的で個性的な感情と悲哀の感情を表す作品に優れる

 『詩品』の著者,梁の鐘エ(469〜518)は「潘陸」の優劣を評し,「陸機の才は海のようであり,潘岳の才は長江のようである,陸機は才能のはばは広いが,詩に動きがなく,潘岳は才能のはばはせまいが,詩はダイナミックな詩情を持つ」と述べている。

 

             金谷集作詩     金谷集作詩
       王生和鼎実   王生は鼎実を和え
       石子鎮海沂   石子は鎮海沂を鎮めんとす
       親友各言邁   親友 各々に言う 邁けば
       中心悵有違   中心 悵として違う有り
       何似叙離思   何を似てか離思を叙べん 
       携手遊郊畿   手を携えて に遊ばん郊畿
       朝発晋京陽   朝に晋京の陽を発し
       夕次金谷○   夕に次金谷の○に次る
       廻渓○曲阻   渓を廻りて曲れる阻を

       嶮阪路威夷   嶮しき阪 路は威夷し
       緑池汎淡淡   緑の池は汎れて淡淡たり   
       青柳何依依   青き柳は何ぞ依依たる
       濫泉龍鱗瀾   濫泉 龍鱗の瀾
       激波連珠揮   激波 連珠の揮 
       前庭樹沙棠   前庭 沙棠を樹え
       後園植鳥稗   後園 鳥稗を植える
       霊囿繁若榴   霊囿 若榴繁げる
       茂林列芳梨   茂林 芳梨の列なり
       飲至臨華沼   飲至り 華沼に臨む
       遷坐登隆○   坐を遷し 隆○に登る
       玄醴染朱顔   玄き醴 朱顔を染める



             悼亡詩

       
荏苒冬春謝   荏苒として冬春謝し
       寒暑忽流易   寒暑 忽ち流易す
       之子帰窮泉   之の子 窮泉に帰し
       重壤永幽隔   重壤は永く幽隔す
       私懐誰克従   私懐に誰か克く従はん
       淹留亦何益   淹留するも亦何の益あらん
       ○俛恭朝命   ○俛として朝命を恭しみ
       入室想所歴   入室に入って歴し所を想う
       望盧思其人   盧を望みて其の人を思う
       幃屏無髣髴   幃屏に髣髴たる無く
       翰墨有余跡   翰墨に余跡あり
       流芳未及歇   流芳 未だ歇むに及ばず
       遺挂猶在壁   遺挂は猶を壁に在り
       悵○如或存   悵○として或は存するが如く
       周遑○驚タ   周遑として○へ驚タす
       如彼翰林鳥   彼の林に翰うつ鳥の
       雙棲一朝隻   雙棲するの一朝にして隻なるが如し 
       如彼遊川魚   彼の遊川に遊ぐ魚の
       比目中路析   目を比べしもの中路に析たるが如し
       春風縁隙来   春風 隙に縁りて来たり
       晨溜承簷滴   晨溜 簷を承けて滴る
       寝興何時忘   寝興 何れの時か忘れん
       沈憂日盈積   沈憂は日に盈積す
       庶幾有時衰   庶幾はくは時に衰える有らんことを
       荘缶猶可撃   荘缶をば猶を撃つ可し



    於賈謐坐講漢書(賈謐の坐に於て漢書を講す)

    理道在儒  道を理むるは 儒二在り
    弘儒由人  儒を弘むるは 人に由る
    光矣魯侯  光かしき 魯侯
    文質彬彬  文質は 彬彬たり
    筆下○藻   筆下に 藻を○べ
    席上敷珍  席上に珍を敷く
    前疑惟辨  前疑を 惟れ辨じ
    旧史惟新  旧史を 惟れ新にす
    将分爾疑  将に 爾の疑いを分かたんとし
    既辨爾疑  既に 爾の疑いを辨す
    延我僚友  我が僚友を延き
    講此微辞  講此の微辞を講ず

 

 

張載

略伝と性格

 陝西省関中の出身。1057年に38歳で進士に合格して、河北・陝西・甘粛などの地方官を歴任し、1069年50歳の冬に朝廷に召されたが、王安石の新法に反対し、翌年病気を理由に帰郷、読書と思索に没頭した。1077年にも朝廷に召されたが志を得ず、その年の冬に辞職し、帰郷の途次に亡くなった。

 「天地のために心を立て、生民のために道を立て、去聖のために絶学を継ぎ、万世のために太平を開く」という語で察せられるように、豪傑の性質を持つ。若い頃は兵法を好み、政治に情熱を燃やしたが、范仲淹に諭され『中庸』を授けられたのをきっかけに儒者に転じた。

 仏教・老荘の教えに一時心酔したが、1056年に国都・開封で甥にあたる程氏兄弟(程・程頤)と出会い、儒者としての自信を確立したという。それまで虎の皮に座って『易』の講義をしていたのが、二程氏の『易』論を聴いて感服し、潔く虎皮を撤去して、門人たちを二程氏に師事させたという逸話がある。

[編集] 思想

 張載は『易』『中庸』に依拠し、万物の生成を陰陽二気の集散によって説明し、「太虚」をその本体とした。太虚は無形であり、気は有形だがこの両者は一物両体、太虚即気という緊密な関係にあるという気一元の哲学を樹立した。太虚と気による二元論は周敦頤より発展しているが、「太虚」説は宋学の主流とはならなかった。ただし、王陽明や日本の大塩中斎には大きな影響を与えている。

 人間性を「気質の性」と「天地の性」の両面から考えることを提唱し、道徳の淵源は太虚=天地の性にあると説き、気質を浄化して天地の性に帰ることを勧めた。「心が性と情を統べる」という見解は、後の朱熹によって二程にも勝るとされている。個人修養と社会生活における「礼」の重要性を強調し、仏・道の二教を排斥し儒教の独立性を明確にしようと努めた。

 主著として『正蒙』『西銘』『東銘』『経学理窟』『易説』などのほか若干の詩文と語録があり、『張氏全書』に一括して収められている。

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左思、潘岳、張載、張協、陸機、陸雲楹聯散曲元曲自由漢詩笠翁対韻羊角対漢歌漢俳填詞詩余曄歌坤歌偲歌瀛歌三連五七律はこの講座にあります
張載 像