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陶体

 陶体は東晋末期、劉宋初期の詩人陶潜(字は陶淵明)の詩体を指す。彼の五言詩は、田園風景を主題として、清らかで自然な雰囲気を見せている。

 漢・魏時代の詩の伝統を継承していながら、独特の風格を持っている。彼の詩風は唐代の王維・孟浩然・儲光羲・韋應物・柳宗元などの詩人たちに大きな影響を与えた。後世の田園詩は殆ど陶体詩の影響を受けていると言える。

 その作風は、阮籍の『詠懷詩』(『古詩源』卷六、『昭明文選』第二十三卷『詠懷詩十七首』(八十二首))の影響を強く受け、その重苦しさと諦観を引き継ぎ、『古詩十九首』の持つ哀歓を漂わせたものとなっている。死生観は慥かに阮籍の流れを汲む暗いものだが、緑野を慕い田園生活を謳う姿は明らかに陶淵明ならではのものである。この一種独特の雰囲気を漂わせた明暗双方を担う作品こそ、阮籍を超えた彼のオリジナリティなのだろう。

  飮酒二十首 其五 晉  陶潛
結廬在人境,而無車馬喧。問君何能爾,心遠地自偏。
采菊東籬下,悠然見南山。山氣日夕佳,飛鳥相與還。
此中有眞意,欲辨已忘言。

 

      歸園田居五首 陶潛
       其一
少無適俗韻,性本愛邱山。誤落塵網中,一去三十年。
羈鳥戀舊林,池魚思故淵。開荒南野際,守拙歸園田。
方宅十餘畝,草屋八九間。楡柳蔭後簷,桃李羅堂前。
曖曖遠人村,依依墟里煙。狗吠深巷中,鷄鳴桑樹巓。
戸庭無塵雜,虚室有餘閨B久在樊籠裡,復得返自然。

 

  飮酒二十首 其一 晉  陶潛
衰榮無定在,彼此更共之。邵生瓜田中,寧似東陵時。
寒暑有代謝,人道毎如茲。達人解其會,逝將不復疑。
忽與一觴酒,日夕歡相持。

陶淵明菊を愛でるの圖
頤和園長廊之圖



陶淵明
 陶淵明(とうえんめい。365年 - 427年11月。興寧3年 - 元嘉3年)は、中国六朝時代の東晋末から南朝宋にかけて活躍した漢詩人。名は淵明、字を元亮。または名を潜、字を淵明という。靖節と諡されたことから、靖節先生、その自伝的作品『五柳先生伝』から五柳先生とも呼ばれる。潯陽柴桑(現・江西省九江市)の人。

略伝
 その祖は遥か神話の皇帝、帝堯(陶唐氏)に遡るとその詩『子に命く』にあるが、真偽を問うのは野暮と言うものであろう。確実なところで言えば、陶氏はもともと三国呉の揚武将軍・陶丹を出した名族で、陶丹の子で東晋の長沙公大司馬・陶侃が陶淵明の曽祖父であった。祖父はその庶子で武昌太守・陶茂という。
 母方の祖父の孟嘉も東晋の名族であり、陶淵明はまずまずの士大夫階級の出身者だったが、いわゆる大貴族階級ではなく、門閥が将来を決定する南朝政権下にあっては冷遇された「寒門」と呼ばれる下級士族であった。父の名が伝わらないことがその境遇を表している。

 当初、先祖伝来の田畑を耕す生活を送っていたが、打ち続く戦乱と天災に暮らし向きは芳しくなく、393年(29歳)、江州祭酒(教育長)として出仕するも短期間で辞め、直後に主簿(記録官)として招かれるも辞退する。その後399年(35歳)、江州刺史・桓玄に仕え、さらに404年、鎮軍将軍 劉裕に参軍(軍事参議官)として仕える。
 両者は東晋の重鎮でありながらついには簒奪者となった者で、これらに仕えたことは陶淵明最大の痛恨事であった。405年秋(41歳)、彭沢県(九江市の東90km)令となるが、11月、辞して帰郷し、以後2度と官職につかなかった。伝によれば、郡の督郵が巡察に来るので衣冠束帯して待つよう下吏に言われたのに対し、「僅かな給料のために、田舎の若造に腰を折るのは真っ平だ」と憤慨し、即日辞職・帰郷したのだという。
 もともと陶淵明には帰農・隠遁の意思が強く、官職についていた間もたびたび辞職したり、母孟氏の喪(401年)に服したりしながら故郷の田畑を耕す生活を送っていた。それでも短期間ながら官職についたのは、経済的な理由もあったろうが、曽祖父以来一族が仕えた東晋を支えたいという意思があったのであろう。
 しかしこのころ、誰の目にも東晋の衰退は明らかで、実権は劉裕に握られ、簒奪による王朝交代も時間の問題であった。これ以上東晋に仕える意味はないと悟ったのであろう。なおこの間、384年(20歳)ころに結婚した先妻と394年ころに死別し、後妻の?氏を娶った。両妻の間に5人の男子(儼・俟・?・佚・?)をもうけている。

 これ以後、陶淵明は本来志した隠遁生活を生涯継続する。408年、火事にあって屋敷を失い、しばらくは門前に舫う船に寝泊りする。411年、住まいを南村に移して生活を新たに立て直すが、同年、隠遁生活のよき同士であった従弟の陶敬遠(31歳)を喪う。
 その後、最末期の東晋や、劉裕による簒奪後の南朝宋から官僚として招かれるも応じず、またその名声を借りようとして近づく俗人を退けつつ、貧困と疾病(マラリア)に苦しみながら晩年をすごし、427年11月、ついに斃れる。享年63。その誄(追悼文)は、親友で、当時一流の文人だった顔延之の筆によるものであった。

詩の特徴
 
その作品に対する第1の評価が田園詩のジャンルにあることは論を待たない。江南の好風景の中、世俗に背を向け、いわゆる「晴耕雨読」の生き様を気高く詠う詩は、中国人が本来持つ隠遁思想の体現として高い評価を得てきた。
 しかしそれは、こんにちのように社会の一線を退いたものが、安穏とした悠々自適の生活を謳歌して詠んだものではない。現在に伝わる詩124首を通読すれば、その生活はときに失火に進退窮まり、ときに貧に悩んで食を乞い、経世済民を志した若年の記憶に心を騒がせ、その名声を利用するために近づこうとする俗人に悩まされ、悠々自適からは程遠い状況だったことがわかる。
 だが、そのような人間くさい懊悩に乱されつつ、時として茫漠ながら達しえた境地を表現した田園詩が後世の高い評価を得たのである。

 ところで、陶淵明の作品中、上述の田園詩に分類されるものは僅かに30首に過ぎず、実に3分の2が、折々の感慨を吐露したり時事を風刺する、詠懐詩に分類される。
 数の多さが必ずしも詩人の評価とはならないものの、陶淵明の場合は詠懐詩のジャンルも田園詩に劣らぬ名作が多く、後世への影響を考えると、むしろこちらのほうが重要と思える。

 技巧的な特徴としては、この時代としては稀に見る平易な表現が挙げられる。後漢末、建安の七子や三曹(曹操・曹丕・曹植)によって歌謡から文学の域に高められた漢詩は、三国魏・西晋・東晋の間に洗練の度合いを高め、このころより華麗な字句や典雅な言い回しを多用するようになっていた。
 この傾向は六朝時代を経て初唐に到るまでエスカレートするのだが、陶淵明はそういった傾向に背を向けた。これは、その詩の内容も平淡ではなはだ理解しやすかったこととあいまって、時代を問わず多くの人士の愛吟する理由となっている。

 なお、陶淵明には詩ばかりでなく、辞賦・散文12篇の作品がある。このうち、彭沢令を辞する際に賦したという『帰去来の辞』はあまりに有名だが、他にも非常に艶やかな内容で、隠遁者・陶淵明の意外な一面が窺える『閑情の賦』や、当時の中国文学では数少ないフィクション『桃花源記』はつとに名高い。これは東洋版のユートピア・理想郷の表現である桃源郷の語源ともなっている。

  《桃花源記并詩》陶淵明
  晋太元中,武陵人捕魚為業,縁溪行,忘路之遠近。忽逢桃花林,夾岸数百歩,中無雑樹,芳草鮮美,落英繽紛。漁人甚異之。復前行,欲窮其林。林尽水源,便得一山。山有小口,□彿若有光,便舎船从口入。初極狭,才通大,復行数十歩,豁然開朗。土地平曠,屋舎儼然,有良田,美池,桑竹之属。阡陌交通,鶏犬相聞。其中往来種作,男女衣著,悉如外人。黄髪垂髫,并怡然自樂。見漁人,乃大驚,問所从来,具答之。便要還家,設酒殺鶏作食。村中聞有此人,咸来問訊。自云先世避秦時乱,率妻子邑人来此絶境,不復出焉,遂与外人間隔。問今是何世,乃不知有漢,無論魏晋。此人一一為具言所聞,皆嘆□。餘人各復延至其家,皆出酒食。停数日,辞去。此中人語云不足為外人道也。既出,得其船,便扶向路,処処志之。及郡下,詣太守,説如此。太守即遣人随其往,尋向所志,遂迷,不復得路。南陽劉子驥,高尚士也。聞之,欣然規往,未果,尋病終。後遂無問津者。

  □氏乱天紀,賢者避其世。黄綺之商山,伊人亦云逝。
  往跡浸復湮,来径遂蕪廃。相命肆農耕,日入从所憩。
  桑竹垂餘蔭,菽稷随時芸。春蚕収長絲,秋熟靡王税。
  荒路暖交通,鶏犬互鳴吠。俎豆犹古法,衣裳無新制。
  童孺縦行歌,斑白歓游詣。草榮識節和,木衰知風氏B
  雖無紀歴志,四時自成歳。怡然有餘樂,於何労智慧。
  奇踪隠五百,一朝敞神界。淳薄既異源,旋復還幽蔽。
  借問游方士,焉測塵囂外。愿言躡軽風,高挙尋吾契。

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陶淵明(364-427)

 

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