漢詩詞諸派齋梁体 中山逍雀漢詩詞填詞詩余楹聯創作講座 TopPageこちらからもお探し下さい

齋梁体

 齋梁体とは、齋・梁と言う二つの時代の、詩人共通の詩風である。依ってその一部として齋代の永明体も含んでいる。

 先ず齋梁体の一部である永明体と言うグループは、漢・魏の素朴な詩風と正反対に、言葉遣いや形、聲律の調和を重視するが、内容を重視しない。その為に、後世の詩論家から批判されている。

 一方、永明体をも含んではいるが、齋梁体と言われる齋・梁の詩人達のグループは、平仄の調和を重視したので、大量の対句が詩に導入され、詩作の技巧を一層発展させることとなった。つまり、唐代の近体詩成立の基礎を創ったのである。

 言い方を変えれば、永明体と齋梁体は共に、形式重視内容軽視の詩体ではあるが、齋梁体と永明体が異なる点は、齋梁体は言葉遣いを重視している点である。

 

永明体

南朝社会の変化と艶体詩風の形成
      北京大学 傅剛

 南朝斉、梁の時期に出現した艶体詩風について、学術界には異なる解釈がある。過去の文学史研究では、一般に統治階級の腐敗した生活の反映したものだと総括され、何ひとつ見方を深めようとしなかった。現代の文学史研究者は、より客観的な態度で宮体詩の研究を始め、より客観的な結論を出している。それには概ねいくつかの観点がある。
 一つは、詩歌の題材自体が新変した原因だとするもの、つまり言志から縁情へ、さらに山水へ、そして最後に外的環境から人体そのものへと移り変わったように、外部の物体から改めて縁情に方向を転じたために、宮体詩が出現したとみなすものである。
 もう一つは、当時の仏教思想の盛行と関わりがあるとするものである。こうした解釈にはすべて論理はあるが、いずれもある一つの側面から宮体詩発生の原因を解釈したものである。
 そこで本稿では、試みに社会の変化の角度から検討を進め、『玉台新詠』という代表的な宮体詩風は蕭綱とその臣下の独自の行為によるものではなく、また梁一代のみで形成されたものでもないと考える。その発生は、じつは南朝皇権政治の俗文化の産物なのである。

 南朝は劉宋政権より始まり、国を開いた皇帝はすべて武将出身であった。宋の劉裕、斉の蕭道成、梁の蕭衍および後の陳の陳覇先らはいずれもそうである。これら武将出身者は出自が寒素で、例えば劉裕は素貧で薪や布靴を売って暮らし、自ら「田舎じじい」と称していた(『宋書』武帝紀)のが、後に軍功により北府兵の将校となって、終には晋から天下を取ったのである。斉、梁の二蕭は同門の出で、身分は劉氏に比べて高かったが、門閥としてはやや低い士族であった。
 このように出自が低く軍功によって起家した皇帝であり、即位後は当然ながら晋以来の高級士族の特権に制限を加えた。そのため彼らは寒門出身者を多く起用して朝廷の要職を担当させたし、また彼らに随って勲功を挙げた将校達はもちろん彼らの主要な拠り所であるから、軍功を以て朝廷の大権を掌握する処が大きかった。
 劉宋王朝は軍功によって起家したが、その子孫は武から文に転じ、かつその極めて優秀な者に到氏、劉氏、柳氏、蕭氏等があった。到氏は到彦之に始まる。彦之は彭城武原の人、劉裕が孫恩を討伐してからしばしば戦功を挙げ、建昌県公に封ぜられた。
 だが、元嘉七年(430)北伐に失敗し、文帝により下獄された。後にその封邑を回復し、十年(433)没した。到彦之の孫の到ヒは、宋の明帝の時に起用され、斉に入って後、斉の高帝蕭道成との旧誼により頗る重用され、位は御史中丞、五兵尚書、廬陵王の中軍長史に至る。
 到ヒの子到、弟の子到漑、到洽は、梁時文名世に冠たりと言われ、任ムは「宋は其の武を得たるも、梁は其の文を得たり」と称した。到彦之から到兄弟に至るまで、到氏家族はすでに武より文に転ずる過程を完成していた。劉氏は劉?に始まる。
 到彦之の始まりが劉裕の起兵からであったのとは異なるが、劉?の父、祖父は宋に仕えて郡守であった。劉?は元嘉二十七年使者として都に上り、その応対が上意に適い、寧遠将軍、緩遠太守に除せられた。文帝、孝武帝、明帝、廃帝からいずれも重用されて功績甚だしく、功を以て?陽県侯に封ぜられた。
 廃帝の時、桂陽王休范が反乱を起こして戦死した。?の子悛もまた武将で、宋、斉時に戦功を挙げ、斉に入って斉武帝の知遇を受け、声望頗る盛ん、斉の東昏侯の時に没した。
 劉悛の子劉孺、劉覧、劉遵、悛の弟劉絵、絵の子劉孝綽、孝儀、孝勝、孝威、孝綽の妹令嫻等は、いずれも梁時の著名な文人である。柳氏は柳元景に始まる。元景は宋文帝時の勇将で、北伐して陝下に達し、軍功を以て三公に至る。後に前廃帝に殺害された。元景の弟の子世隆は、史書に読書を好み、文史を渉猟すとするが、武事を以て斉高帝、武帝に賞識せられた。
 世隆の子柳?、柳ツは、武より文に転じ、文名は梁時に盛んで、梁武帝に大変欣賞された。蕭氏は蕭思話に始まる。蕭思話は外戚の出身で、孝懿皇后の弟の子である。蕭氏で文名のある者は蕭?で、蕭思話の従孫である。梁武帝、沈約等とともに竟陵王の八友であった。
 以上、到、柳、蕭の諸氏はいずれも軍人出身で、軍功を以て起家したが、その後代は武より文に転じた。その武より文に転じた過程から見れば、基本的には宋、斉に端を発し、斉末梁初に完成した。例えば劉?は武将でありながら、史書に彼が兼ねて文義を好んだと言うのは、文を重んじるのが劉氏の伝統だったからであり、その孫の劉孺に至って文義を著した、時はすでに斉時であった。
 従って、任ムが「宋は其の武を得たるも、梁は其の文を得たり」と言うのは、到氏に限らず南朝に当てはまる一般的状況だったのである。

 以上、諸氏が武から文に転じたことには、南朝の武事を蔑視する風気が反映していた。『南斉書』張欣泰伝には「欣泰少くして志節有り、武業を以て自ら居らず、隷書を好み、子史を読む、年十余にして、吏部尚書?淵に詣る。淵之に問ひて曰く「張郎は弓馬多少ぞ。」と。欣泰答へて曰く「性馬を怯畏し、弓を牽く力無し。」と。」張欣泰は宋明帝時の名将張興世の子で、彼の話は当時の武将の家の子弟が武事を嫌っていたという心理を反映している。
 どうして武事を嫌ったのか?これと当時の高門世族が武人を軽蔑したこととに関わりがある。南朝時には朝廷が寒人を登用し、寒人は枢要を掌握したといっても、士庶の隔たりはなお非常に大きかった。寒人は機会ある毎に士族に割り込みたいと考えていたが、士族は世論を握っていたから、こうした武将の家の子弟は早く軍服を脱ぎ捨て、転身して士族に加わりたかったのである。
 じつは武将の子弟がこのようであったばかりでなく、実際、劉宋開始以来、帝王も文事を重視した。斉、梁二蕭は言うまでもなく、宋世の武帝、文帝、孝武帝、明帝の如きは、史書に通じ大変文才に優れていた。『文心雕龍』時序篇によれば「宋武文を愛してより、文帝は彬雅にして、文の徳を秉り、孝武は才多く、英才雲のごとく構す。明帝より以下、文理替す」という。
 これは宋武帝以来頗る文を重んじたことを言うのであり、例えば文帝は文学館を建て4、孝武帝は文章を好んだので天下は文才を尊んだとか5、明帝は読書を好み、文義を愛して、藩に在った時『江左以来文章志』を著したとか、諸王の中でも臨川王劉義慶などは文人を組織して『世説新語』、『集林』など豊富な著述がある。

 南朝が武より文に転じたのには、政治的要因もあった。武人が権要を掌握すると、往々猜疑を受けた。『資治通鑑』巻百三十五斉紀一に「辛酉、宋の宗室を殺す、陰安公燮等少長と無く皆死す。前予州刺史劉澄之は、遵孝の子なり、?淵と善くす。淵之が為に固く請いて曰く「澄之兄弟は武ならず、且つ劉宋において又疎なり」と。
 故に遵孝の族独り免がるるを得」とある。また同書百四十一斉紀七に「蕭毅は奢豪にして、弓馬を好み、上の忌む所と為り、故に事に因りて之を陥る。河東王鉉は、先に年少才弱を以て、故に未だ上の殺す所と為る」、また同書百三十七斉紀三には文恵太子が蕭子響を忌み、また蕭順之に殺させた。これも武人の子弟が武を嫌った一つの原因である。

 南朝は門閥世族の社会で、武人は軍功によって起家し、政治的地位を有したが、子孫すべてに長くその地位を保持させるためには、士族階層の仲間入りをしなければならなかった。このような目的を達成するには、武を棄て文を習い、文によって家を興したのである。
 蕭思話は十余歳にして学問が無かったが、その子恵開は文史を渉猟した。恵開の従子蕭深には才弁があり、恵開に「必ず吾が宗を興さん」と認められた。このように当時は文によって家を興し、武を恃むという風気ではなかったことがわかる。また柳元景は若くして弓馬をこなし、勇を以て称され、謝晦、劉義恭、文帝の知遇を得た。
 元景の弟の子世隆は読書を好み、節を折り琴を弾じ、文史を渉猟し、音は温潤を吐いた。柳世隆は張緒に答えてこう言っている。「子孫不才なれば、将に府を争うを為さんとするも、その才のごときは、一経に如かず」と。顔之推の『顔氏家訓』誡兵篇には「今世の士大夫は但だ書を読まざるのみならず、即ち武夫児と称し、乃ち飯嚢酒瓮するのみ」とあり、武夫とは当時の人の目には勇敢な兵士を意味したが、文章を習い経典を読んではじめて士人階層にくわわることができたのである。
 また『顔氏家訓』勉学篇には「荒乱より已来、諸俘虜は百世の小人と雖も、『論語』、『孝経』を読むを知る者は、尚びて人師為り、千載の冠冕と雖も、書記を暁らざる者は、耕田養馬せざる莫し」とある。
 これは顔之推が梁の太清の乱後に得た経験によるものであるが、有識の士がみな地位を得られた事実が見て取れる。ゆえに、文を以て宗を興すことは、南朝時のみならず、中国古代には全体がそうであったのである。

 南朝皇族と武将の家の子弟とが武から文に転じたことには、新政権の文化上の必要性が反映していた。だが同じように文義を愛好してはいても、東晋の高級士族とでは極めて大きな差異があった。
 この点について、私はかつて『魏晋南北朝詩歌史論』第六章第一節の中で論じたことがある。概ね南朝の武人は政権を掌握した後、武を止め文を修めたものの、文化に対する要求はむしろ世俗化、享楽化に向って発展し、両晋の士族が家族の学術文化の養成を重視していたのとは違っていた。
 世俗化、享楽化の主たる方向は俗文化への赤裸々な追求にあった。『南斉書』王僧虔伝に記載された記事は、この点について示唆的である9。この記事は南斉の時期について述べているが、じつは宋孝武帝の大明以来、俗文化はすでに朝野に浸透していたのである。
 『南斉書』巻四十六蕭恵基伝には「宋の大明以来、声伎の尚ぶ所は、鄭衛の淫俗多く、雅楽の正声、好む者有ること鮮し」とあり、また『南史』巻四高帝本紀には「大明、泰始以来、相奢侈を承(つ)ぎ、百姓俗と成る」とある。宋の武帝劉裕の開国、文帝劉義隆の元嘉三十年の治世より、孝武帝時に至るまで大きく蓄積されていったのである。文帝の時には儒、玄、文、史四学を立て、大いに文治を尚び、『資治通鑑』巻一二三宋紀五評元嘉之治に「閭閻の間、講誦相聞ゆ。士は敦く操尚し、郷は軽薄を恥じ、江左の風格は、斯において美と為す。
 後の政治を言ふ者、皆元嘉を称す。」とある。数十年の修養を経て、孝武帝時に至って繁栄期を迎えたという。孝武帝劉峻は文義を好なだことは、実際、裴子野の『雕虫論』に「大明の代、実に斯文を好み、高才逸韻、頗る前哲に謝し、波流相尚び、滋篤き有り。是より閭閻の年少、貴游の総角、六芸を擯落せざる無く、情性を吟詠して、学ぶ者は博依を以て急務と為し、章句を謂ひては魯を専らにし、淫文破典、斐爾を功と為す。
 管弦を被る無く、礼義に止まるに非ず、深心は卉木を主とし、遠致は風雲に極まり、其の興は浮き、其の志は弱く、巧にして要ならず、隠にして深からず、其の宗途を討(たづ)ぬれば、亦宋の風有るなり。季子の聆音は、則ち国を興すに非ず、鯉の室に趨くも、必ずしも敢てせざる有るが若し。
 荀卿に言有り、乱代の徴しは、文章匿れて彩り、斯れ豈之に近からんや」とある10。裴子野は経学の立場から批評的な姿勢をとるが、やはり孝武帝時に右文の風に至ったと解説する。文風がこのようであったばかりでなく、孝武帝は制度上でも文帝の善政を多く改めた。
 『通鑑』巻一二七宋紀九元嘉三十年条では、孝武帝について「太祖の制を変易すること多く、郡県三周を以て満と為し、宋の善政は、是において衰ふ。」と言う。
 『南史』巻四斉高帝本紀でも「大明、泰始以来、相奢侈を承ぎ、百姓俗と成る」と言う。奢侈の風は上層より起こり、孝武帝は文帝の三年の喪を終えて後、奢淫にふけるようになった。『通鑑』一二九宋紀十一では「又騎射を善くするも、奢欲に度無し。晋氏渡江より以来、宮室草創し、朝晏に臨む所は、東西の二堂あるのみ。
 晋孝武の末に始めて清暑殿を作り、宋興り、増改する所無く、上始めて宮室を大修し、土木は錦綉を被り、嬖妾幸臣、賞賜府蔵を傾く。高祖居る所の陰室を壊し、其処において玉燭殿を起て、群臣と之を観る、床頭に土障壁有り、上に葛灯籠麻蠅払を掛く、侍中袁因りて盛んに高祖倹素の徳を称す。上答えず、独り曰く、田舎公此を得るは、已に過為り。と」と記す。この話は、武帝の後の子孫の頑迷さを示している。
 胡三省は非常に感慨深く「周公無逸の書に曰く、否は則ち厥の父母を侮るなり。昔の人は聞知する無しと曰ふ、宋武是なり」と記している。

 劉宋は、武帝劉裕は王朝を開始してから、自ら節倹に努めたが、その子劉義符は淫乱のために廃位された。だが劉義符は始まりであったにすぎず、文帝劉義隆を除けば、淫乱でなかった者はいない。元凶劉劭、前廃帝劉子業、後廃帝劉cがまったく人倫の綱常を欠いた乱主であったことは言うに及ばず、孝武帝劉峻もまた尋常の外に出るものである。史書には多くの記載がある。
 このような君主、朝政は、もちろん世風や民習に影響を与えた。『通鑑』一二七宋紀九は周朗が孝武帝に上疏して「凡そ厥れ庶民は、制度日に侈なり。車馬の貴賎を弁へざるを見、冠服の尊卑を知らざるを視る。尚ほ方今一物を造れば、小民明らかに已に○(目+辟)睨し、宮中朝に一衣を製すれば、庶家晩に已に裁を学ぶ。
 侈麗の源は、実に宮?を先とす」という。周朗のこの疏は、朝廷が民間の風俗の形成に重要な影響を与えていたことを物語っており、大明年間の奢麗の民風は、じつに皇室を根源としていたのである。

 孝武の死後、その子前廃帝劉子業は情理にもとる行為をし、生活の上ではその父と軌を一にしていた。文帝の第十女新蔡公主と私通して、宮中に連れ込んで貴嬪夫人とし、姓を謝氏に改めたりと、荒唐ぶりはきわまり、終には湘東王劉ケに殺されたのである。
 だが劉ケも即位後には、孝武帝やその子から教訓を得ることはなく、同様に奢侈の浪費に度がなく、同様に淫乱であった。孝武帝劉峻と同じように、明帝にも文才があり、裴子野の『雕虫論』では「宋の明帝は博く文章を好み、才思朗捷、常に書奏を読み、号して七行倶下(読書が極めて早いこと)と称し、禎祥有る毎に、宴集に幸するに及び、輙ち詩を陳べ義を展べて、且つ以て朝臣に命じ、其れ戎士武夫は、則ち情を托すに暇あらず、課限に困しみ、或ひは買いて以て詔に応ず。
 是において天下の向風、人自ら藻飾し、雕虫の芸、時に盛んなり」と記している13。文学史上における様相は、まさに孝武帝の大明年間と明帝の泰始年間とは当時の人によって一種の現象として叙述されている。
 このように孝武帝と明帝の生活上の奢侈淫猥と文学上の才能とは、ついに大明、泰始の文学的題材の艶情化と文風の華麗さを生み出したのである。

 南朝は、寒人出身の武人が樹立した政権であるため、東晋から続いた士族に対する優遇政策は、その多くが改められた。依然として門閥士族は社会の最大の利益を得ていたが、多くの面で権力者はしばしば寒人を登用して士族に対抗したのである。
 かの「王と馬と、天下を共にす」という折衷の政治は、すでに存立できなくなっていた。先に述べたように、南朝の皇権はその出自により世俗的な文化を好んだ。江南の民歌である呉声、西曲は、劉宋皇室の人々に大変愛された。
 例えば少帝劉義符は「前渓歌」、孝武帝は「丁都護歌」、劉義康は「読曲歌」、劉鑠は「寿陽楽」、劉誕は「襄陽楽」を作るなど14、当時の文人にとって南朝民歌を学ぶという影響を与えた。南朝詩人が漢の楽府を作り直して艶情を表出させた「三婦艶」を作ったのもこの時であり、その最初の作者こそ南平王劉鑠だったのである。
 このほか皇帝の重用された寒人は、元来は武人出身者が多かったが、その子孫は逆に文の方向へと転換した。転換した後の文化の趨勢は、当然ながら俗文化の様相を呈した。
 一方、士族にもまた変化が生じ、彼らは皇帝権力に対して服従せざるをえなくなった。南朝士族の代表は、王謝の二家である。謝家は劉宋時にはなお画策を試みたが、謝混、謝晦、謝霊運が殺害されると、謝家ですらしだいに皇帝権力に屈するしかなかった。
 宋、斉時には、謝家の中で際立った者には謝荘、謝朏、謝○、謝○等がいるものの、梁時には謝家ではわずかに謝舉が挙げられるだけである。
 王家は謝家と異なり、政治上の利益を常に第一に置いた家族であり、通俗的に言えば時流に合わせたのである。南朝の宋、斉、梁、陳の四王朝には、どの時期にも王氏の人間が、光栄ではない事柄に参与していることがわかる。例えば宋末の王倹、斉末の王晏、王融、梁末の王克などは、政治的に頗る進取に奔走していた。特に王克は、侯景に仕え、位は太宰侍中録尚書事に至った。
 台城が平定されると、王僧弁は面と向かって皮肉って「甚だ夷狄の君に事ふるを苦しむ」と言い、また「王氏は百氏の卿族なるも、一朝にして墜つ」と言っている16。実際、王氏は自分の家族の利益を保持するために、忠義をまったく問題としなかった。王氏のこうした徳操のない家風を、後人は歯牙にもかけなかった。
 『旧唐書』文苑伝・袁朗伝によれば、袁朗は自ら朝廷内外の人物によって国内の顕貴な士族を定めたが、琅邪の王氏は何代も三公の地位にあって朝廷の首領として佐命を預かったけれども、これを疎んじて列に加えないと述べている。王氏を代表として、南朝の士族は自覚的に新政権に取り入っていたのである。

 魏晋以降、士族と庶民の境界は厳格であったが、沈約、任ムらはいずれも士族と寒人の間での婚姻関係を弾劾している。また『南史』には、一部の寒門出身者が新王朝の中で地位が高くなるに随って士族と交際したいと考えたが、拒絶の憂き目にあったため、その後の人は南朝の士庶の境界は越えられないとみなしたという記載がある。
 だが事実は、南朝士族と寒門出身で高位にある家との婚姻が決して少なくないことを見て取れる。例えば王融の甥は劉孝綽であり、謝?の義父は王敬則であり、劉孝綽の祖父劉?と王敬則はともに武将出身であり、王、謝二家が婚姻を結んだのは、これは当然ながら政治的利益に基づく結びつきなのである。
 東晋以来、士家大族は政治、経済および文化上の特権を享受することによって、官途の上では清官の職に就くことが多かったが、南朝になると皇帝は士族を抑制するために、寒人を多く用いて重要な地位を任せ、長きに渉って、士族の朝廷における発言権を抑えた。
 我々は、斉梁時代の寒人、例えば紀僧真、劉係宗、茹法亮、朱異らが皇帝の寵を得、斉の明帝に至っては「学士は治国に堪えず、唯だ大いに書を読むのみ。一劉係宗、此の如き輩五百人を持するに足る」とまで言っている18。官吏登用策ばかりでなく、文化上の勢力もまたしだいに一級士族の独占に次ぐようになる、梁の徐?、?肩吾の如きはその代表である。
 晋より南朝四代に至るまで、政治の中心はしだいに東西より移り、地域もまた狭くなり、文化上の独占権もまた、高級士族からそれに準ずる士族へと移る傾向が発生した。このような変化にともない、文風もまた次第に雅から俗へと変化したのである。宮体詩風は最終的に梁の後期に発展を見るが、それにはこうした変化が関わっているのである。

 上述のごとく、艶情詩の趨勢は大明、泰始年間にすでに形成され、かつ「殊に已に俗を動か」していた。だが、明帝の死とともに宋末の政局に変動が生じると、最後には蕭道成が宋を簒奪して斉を建国する。斉の高帝蕭道成は在位四年であったが、歴史の上では節倹と称され、大明、泰始以来の豪奢な風俗を大いに改め「身を以て天下を率い、風俗を移変せんと欲」した。
 しかし『南斉書』巻二十三王倹伝には「上は群臣数人と曲宴し、各伎芸を効せしむ。?淵は琵琶を弾じ、王僧虔は琴を弾じ、沈文季は子夜を歌い、張敬児は舞い、王敬則は張を拍す。倹曰く「臣解する所無し、唯だ書を誦んじるを知るのみ」と。因りて上の前に跪き、相如の「封禅書」を誦んず。
 上笑いて曰く「此れ盛徳の事なり、吾何を以てか之に堪えん」と」とあり、斉時の俗楽はすでに朝野に広まり、斉の高帝蕭道成ですらそれを楽しんで倦まなかったことがわかる。
 蕭道成の死後、その子蕭○(臣+責)が位を継ぎ、十一年に渉る永明の治を開始した。斉の最盛期は永明年間である。もちろん宋元嘉の三十年の治、梁武帝の四十九年の治に比べればはるか遠く及ばないが、斉時にはすでに最盛と言われていた。
 泰始から永明の初に至るまで、政治の上では多くの変化が生じ、かつ王朝交代も行われたけれども、時間の上ではわずか十年前後に過ぎない。したがって大明、泰始に成長した豪奢の風俗は、永明の治に伴って再び復活したのである。永明年間の文化的主導者は竟陵王蕭子良である。
 彼は武帝の次子で、文惠太子と親しかった。蕭子良は賓客を重視し、天下の文士を招待して、西邸を開き、文学を興した。永明文学は、彼を核として活動を展開し、沈約、謝?、王融らが新変体の詩歌を提唱した。永明の新変という形式上における追究は声韻によって詩を制作することで、所謂「四声八病」の説である。
 しかし題材や内容の上では、逆に大明、泰始の遺風を継いでおり、艶体化の傾向は更に鮮明になった。梁の簡文帝蕭綱が提唱した宮体詩も、その題材は実は永明体を些かも超えてはいない。『玉台新詠』所載の沈約、王融、謝?の艶詩は、梁代の宮体詩に非常に近い。例えば沈約の「六憶」、「少年新婚為之詠」、「領辺繍」などは、艶情がよく表れている。
 つまり蕭綱らによって唱導された宮体詩は、新変とは称しながら、実際はまさに『梁書』?肩吾伝に「是に至りて転た声韻に拘わり、弥よ麗靡を尚び、復た往時を逾ゆ」とあるように、声韻、麗靡の上で永明を超えていただけなのである。永明体は厳格に言えば、蕭子良を中心として沈約、謝?らにより永明年間に創立された新変体を指すのであり、建武以後の作品を含めるべきではない。建武以後の沈、謝の作品は、体裁はもちろん題材の上でもすべて永明体の概念とは異なっている。
 永明の新変体は、建武以後の時局に変化が生じたために、継続することができなかったのである。まもなく、蕭衍が斉を廃し梁を建て、梁の天監、普通年間に、昭明太子蕭統と中心とする文学集団が形成された。蕭統は雍容敦厚にして、文質彬彬とした詩風を提唱し、永明詩人の艶体化は抑止された。
 しかし、大明、泰始以来形成されてきた艶体化の詩風は決して絶えることなく、蕭統が古雅な詩風を提唱していたまさに同時期に、蕭綱と蕭繹とは逆に雍、荊二府において永明艶体詩の伝統を継承していたのである。蕭統の死去に伴い、蕭綱が東宮の主となると、艶体詩はすぐに蕭綱の提唱する新詩して、朝野に広がった。
 中大通三年より大同の初に至るまで、時間は長くないけれども、宋以来の長年の蓄積によって、また梁代の五十年に近い太平盛世により、宮体詩風は急速に発展し、陳、隋および唐初に至るまで影響を及ぼした。その原因をつきつめれば、決して梁後期の蕭綱の一時代のみで作り出されたものではないのである。

 南朝文化が雅から俗へと転移してゆく過程で、寒人もまた重要な作用を引き起こした。寒人は、宋文帝より重用されはじめ、明帝の時には、左右にことごとく細人を用いた。
 斉・梁の世では、詔命は中書省に関係なく、専ら舎人が書いていた。寒人は、出身は卑賎であるが、機密を掌握した後は、帝王を挟み自ら重んじ、また、常に意識して士族と対抗した。
 朱異の如きは、常にみずから寒人と称し、「我寒士なり、遭逢して以って今日に至る、諸貴皆枯骨に恃み軽んぜらる、我之に下らば、則ち蔑を為すこと尤甚だし、我是を以て之に先んず」という。寒人は、多く吏才があり、ゆえに人主に頼られたのである。
 寒人は人主の恩沢を承け、頗る権力を握ることができた。『南史』恩倖伝には、多く財貨を貪り、奢侈王侯を逾ゆ、とある。朱異伝に「財を貪り賄を冒し、欺きて視聴に罔し」、「宅を東陂に起し、美麗を窮む」、「既にして声勢の駆る所、内外に梹ワす。
 産は羊侃と相埒しく、飲食を好み、滋味声色の娯を極む」とある。寒人は梁に至ったとき、権勢・地位は已に士族と拮抗しており、士大夫の子弟は梁に至ると、『顔氏家訓』勉学にいうように「熏衣剃面せざる無く、粉を傅し朱を施す」、「農商に渉るを耻じ、工伎に努むるを羞ず。
 射ちては既に札を穿つあたわず、筆しては則ち纔かに姓名を記すのみ。飽食して酒に酔い、忽忽として事無し。此を以て日を銷し、此を以て年を終ゆ。或いは家世の餘緒に因り、一階半級を得、便ち謂為えらく足れり」というようであった。梁侯景の乱のとき、こうした士族の子弟は、竟に逃げることもできず、馬にも跨れず、道を走ることもできず、各々「鳥面鵠形、羅綺を衣、珠玉を懐き、床帷に俯伏し、命を待ち終を聴く」のであった。梁に至った時、南朝の士族は、政治、文化を問わず、ともに既に低級の士族と寒人に地位を譲っていた。
 そしてこの時の文化は、声色文化と称することのできるものであった。感覚器官での享受を追及することは、当時の主要な特徴となったのであある。『玉臺新詠』巻八収載の劉緩「劉張史『名士傾城を悦ぶ』を詠ずるに敬酬す」に「巫山の女を信じず、洛川の神を信じず。何ぞ関せん別に物有り、還た是れ傾城の人」という。
 前代に美色とされた巫山の女と洛神であるが、梁の人からみれば、新奇とするに足らず、やはり目の前に横たえる美人のほうが、彼らをより楽しませたのである。
 同じく巻八の鄭鏗「夜妓声を聴くに奉和す」に「新歌自ら曲を作す、旧瑟調するを須いず」という。これらはともに、梁代の低級士族・寒族文人出身者による新たな審美觀であり、新しい時代に作られた新しい観念なのであり、ともに前時代とな異なっているのである。

 

沈約

沈約(しん やく、441年 - 513年)は中国南朝を代表する文人であり、政治家である。呉興武康(浙江省武康県)の人。字は休文。
 沈氏は軍事で頭角を表した江南の貴族であったが、文人優越の時代であったことと、暴虐な君主に父を殺されたこともあり、沈約は学問に精励し、学識を蓄えた。政治家としては、宋・斉・梁の3朝に仕えた。
 斉の文恵太子蕭長懋を主と仰ぎ、竟陵王蕭子良の招きに応じてその文学サロンで重きをなし、竟陵八友のひとりに数えられた。その後蕭衍(梁の創始者)に協力し、官職は尚書令まで上り、建昌県侯に封ぜられた。

 「宋書」を撰したほか「晋書」や「斉紀」を著し、漢詩の音律を研究して、音律について四声(平・上・去・入)八病を唱えた。その詩風は当時の主流となり、永明体と呼ばれた。
 彼が南朝の文学界の主流であった証しとしては、当時の最高の文学理論書である「文心雕龍」を著した劉?の才能を見出したのが沈約であったことを挙げれば十分であろう。彼の文集は、100巻に及ぶ。

 

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