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王孟体

 王孟とは王維と孟浩然を言い、この二人は田園生活の詩を得意とした。風格は晋代の陶淵明に似ている。詩の中で静淡の思想を表現しているので、大自然の息吹を感じさせる。王維は多数の詩体に通じ、孟浩然は五言詩を得意とした。当時王孟の詩風に近い詩人は、儲光羲・韋応物・柳宗元などが居る。

 

 王維wang2(wang4) wei2ワンウェィ
 盛唐の詩人・画家。字は摩詰。太原の人。年少より多芸をもって知られ、官は尚書右丞に至る。詩は山水自然を詠じ、孟浩然と共に王孟と並称される。また、晩年は禅宗に帰依し詩仏と称された。書は草隷2体をよくた。

 生卒年は『旧唐書』によれば699年 - 759年、『新唐書』では701年 - 761年。以降の記述は一応『新唐書』に準拠、長安元年 - 上元2年)は、中国唐帝国の最盛期である盛唐の高級官僚で、時代を代表する詩人である。また、画家であり書家でありまた音楽家としての名も馳せた。字は摩詰、最晩年の官職が尚書右丞であったことから王右丞とも呼ばれる。太原(現在の山西省太原)の出身。

 同時代の詩人李白が詩仙、杜甫が詩聖と呼ばれるのに対し、その典雅静謐な詩風から詩仏と呼ばれ、南朝より続く自然詩を大成させた。韋応物、孟浩然、柳宗元と並び、唐の時代を象徴する自然詩人である。とりわけ、王維はその中でも際だった存在である。画もまた鄭虔や呉道子と並び称され、『南画の祖』と仰がれている。

  九月九日憶山中兄弟
獨在異郷為異客,毎逢佳節倍思親。
遥知兄弟登高處,遍挿茱萸少一人。

  送秘書晁監還日本
積水不可極,安知滄海東。
九州何處遠,萬里若乗空。
向国惟看日,帰帆但信風。
鰲身映天黒,魚眼射波紅。
郷樹扶桑外,主人孤島中。
離別方異域,音信若為通。

  送別
下馬飮君酒,問君何所之。
君言不得意,歸臥南山陲。
但去莫復問,白雲無盡時。

送元二使安西
渭城朝雨潤輕塵,客舎柳色新。
勸君更盡一杯酒,西出陽關無故人。

 

孟浩然もうこうねんmeng4 hao4 ran2メンハオラーン
 盛唐の詩人。名は浩。湖北襄陽の人。鹿門山中に隠棲し、また、都へ出て王維らと交わった。その詩は自然を宗とし、気品に富み、王維と共に王孟と並称。『春暁』 (689〜740)中国唐代(盛唐)の代表的な詩人。襄州襄陽(現在の湖北省襄樊市)出身。字も浩然。一説には、名は浩だとも言われる。

 若い頃から各地を放浪し、義侠の振る舞いで人々と交流した。また後漢の?徳公や皮日休ゆかりの鹿門山(襄樊市)に隠棲したこともあった。玄宗の世となってから長安に赴き仕官しようとするが、科挙に及第していないのでかなわなかった。しかし、孟浩然を気に入った韓朝宗との約束を、飲み会のためにすっぽかして朝廷への推薦をだめにしたり、いざ玄宗の前に出ても不平不満を詩にして玄宗を怒らせるなど、立身出世には関心が薄かったようにもみえる。

 孟浩然の詩は広く知れ渡り、王維・李白・張九齢らと親しく交際した。740年、背中にできものがあって調子の悪かった孟浩然は、訪ねてきた王昌齢を歓待するあまり容態が悪化して亡くなった。

 自然を題材にした詩が評価されており、詩のなかに人生の愁いと超俗とを行き来する心情を詠みこんでいる。日本では五言絶句「春暁」が特に有名である。詩の特徴から王維と孟浩然は「王孟」と並称された。『孟浩然集』がある。   

「五言絶句」 春暁
春眠不覚暁,処処聞啼鳥。
夜来風雨声,花落知多少。

 李白が孟浩然に送った詩があるので紹介しよう。
黄鶴樓送孟浩然之廣陵 李白
故人西辭黄鶴樓,煙花三月下揚州。
孤帆遠影碧空盡,惟見長江天際流。

 

儲光羲
  田家雑興
種桑百餘樹,種黍三重畝。
衣食既有餘,時時會賓友。
夏来菰米飯,秋至菊花酒。
孺人喜逢迎,稚児解趨走。
日暮濶裏,團團蔭楡柳。
酩酊乗夜帰,C淺望河漢。
低ミ看北斗,數甕猶未開。
来朝能飮否。

  長安道
鳴鞭過酒肆,○服遊倡門。○;衣+玄 晴れ着
百萬一時盡,含情無片言。

  洛陽道
大道直如髪,春日佳気多。
五陵貴公子,双双鳴玉珂。

  関山月
一雁過連営,繁霜覆古城。
胡笳在何処,半夜起辺声。

 

韋応物
 韋応物(い おうぶつ、736年 - 791年?)は中国・唐(中唐)の詩人。京兆府長安県(陝西省西安市)出身。

 北周朝からの名門の家に生まれ、若い頃は太学に学んだ。玄宗に近衛士官(三衛郎)として仕えた。玄宗のおぼえはめでたかったものの、強気なところがあった。安史の乱の後、職を失ったため故郷に帰って貧窮した。そこで心を入れ替えて勉学に励んだ。その後、下級の地方官を転々とした。

 洛陽県丞のとき軍兵が不正をはたらくのを厳しく取り締まった。それからは病気を理由に辞任したり?州(安徽省)刺史になったりと、官途に就いたり辞めたりを繰り返した。786年には蘇州刺史になった。そして白居易が赴任してくると引退し、寺院に寓居した。

 その最期は判然としないが、大和年間(827年 - 835年)まで生存していて、劉禹錫によって官に推薦されたというが確証はない。

 自然を詠う詩に巧みで、とくに自然の静けさや穏やかさを主題とする物に秀でている。盛唐の孟浩然や王維を受け継ぐとされ、柳宗元も一括して”王孟韋柳”と並称される。『韋蘇州集』10巻が伝わる。

  聞雁
故園眇何処,帰思方悠哉。
淮南秋雨夜,高斎聞雁来。

  登樓寄王卿
踏閣攀林恨不同,楚雲滄海思無窮。
數家砧杵秋山下,一郡荊榛寒雨中。

  酬柳郎中春日歸揚州南國見別之作
廣陵三月花正開,花裏逢君醉一廻。
南北相過殊不遠,暮潮歸去早潮來。

 

柳宗元
 大暦8年(773年) - 元和14年(819年))は、中国における中唐期の文人。字は子厚(しこう)。河東(山西省)の出身なので柳河東、河東先生とも呼ばれる。また、その最後の任地にちなみ、柳柳州と称することもある。王維や孟浩然らとともに自然詩人として名を馳せ、韓愈とともに宋代に連なる古文復興運動のさきがけと目される。唐宋八大家のひとり。

   江雪
千山鳥飛絶,萬徑人蹤滅。
孤舟簑笠翁,獨釣寒江雪。

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