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黄庭堅と江西派体

 黄庭堅は蘇軾の弟子で、詩もその影響を受けている。然し彼の詩は生・渋・痩・硬の独特の雰囲気を持ち、古風で有名である。拗句も巧みで、故人の詩を引用することも堪能である。これらの特徴で独自の風格を為し、当時は蘇軾と双璧を為した。彼は江西の出身で、江西派体の創始者と呼ばれている。
 南宋の詩詞家、劉克庄は、「江西詩派小序」で、次のように書いて、黄庭と江西詩派の風格を総括している。「黄庭堅は百家のの句律の長所を集め、歴代詩体の変化を追求し、奇書を捜し、異聞を作り、古律の一派を為した。彼は一字半句も疎かにすることはなかった。」と!

 黄庭堅(慶暦5年(1045年)○崇寧4年9月30日(1105年))は、中国北宋時代の書家、詩人、文学者である。洪州分寧(現在の江西省修水県)の人で、字は魯直、号は山谷道人、○翁。黄山谷と呼ばれることが多い。宋代の詩人においては蘇軾・陸游と並び称され、書家としては蘇軾、米○、蔡襄とともに宋の四大家に数えられる。「詩書画三絶」と讚えられ師の蘇軾と名声を等しくして「蘇黄」と呼ばれた。子孫に清代の詩人、黄景仁がいる。

 生涯 治平3年(1066年)に23歳で進士に及第した。王安石の新法派と意見を対立させたため、黄は、河南・北京・江西・山東などの地方に赴任させられている。元豊8年(1085年)に新法派を支えた神宗が没すると旧法派が権力を奪取し、黄は首都○京にて校書郎、著作左郎、起居舎人など中央官僚として活躍した。34歳のころ蘇軾と知り合い、張耒、晁補之、秦観とともに蘇軾門下となり「蘇門四学士」と称された。○京ではこの他にも多くの文人達と交友した。しかし、紹聖元年(1094年)以降、新法派が再度実権を握ると黄は左遷され○州・鄂州・戎州に貶謫されてしまう。崇寧2年(1103年)讒言を受けて宜州へ流刑となりその地で病没した。享年61。南宋の度宗のとき名誉が回復され文節の諡号が贈られた。

 地方への赴任は、自然を愛でて詩書画に耽溺する時間が許され、必ずしも不幸であったとはいえない。また仏門に帰依し老荘思想に傾倒するような自由な精神活動が行えた。むしろ黄庭堅の革新的な芸術を開花させるに理想的な環境であったといえる。

 書法は、初め宋代の周越を手本としたが、その後顔真卿、懐素、楊凝式などの影響を受け、また江蘇省鎮江の焦山の岸辺にある六朝時代の碑文「?鶴銘」の書体から啓発を受けて、丸みの有る文字が連綿と繋がる独自の草書体を確立した。明らかに懐素の影響を受けていながら、筆跡の曲折は手厚く懐素のリズムと完全に異なっている。

 また行書は洗練されてなお力強くて、独特の創造的書法をもつ。これらの書法は後世に対して大きい影響を与えた。そのため北宋の書道界の傑出した存在となり、蘇軾と並び評価が高い。黄庭堅と蘇軾、米?、蔡襄をして宋の四大家と称される。

 また詩文にも優れ、杜甫の詩と韓愈の文に造詣が深い。「換骨奪胎」の語で知られる詩論を確立し、後世江西詩派の開祖とされた。 著書『山谷詩集』の中に書道芸術に対してもいくつかの重要な見解を発表している。優れた伝統の継承と個性の創造を強調して、その作品で実証してみせている。

  荊江亭即事
翰墨場中老伏波,菩提坊裏病維摩。
近人積水無○鷺,時有帰牛浮鼻過。

  虞美人 宜州見梅作
  天涯也有江南信,梅破知春近。夜闌風細得香遲,不道曉來開遍、向南枝。
  玉臺弄粉花應妬,飄到眉心住。平生箇裏願杯深,去國十年老盡、少年心。

 

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