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陸放翁体

 陸游は晩年放翁と號した。彼の詩は最初江西詩派の影響を受けて「奇」「巧」を追求した。中年以降風格は豪放に変化し、晩年になると隠居生活に入ったので、詩も淡静に変化している。陸游の詩を代表しているのは、壮年期の豪放的な風格である。彼は現実主義を反映させることに重きを置いた。当時南宋は政情不安であり、國がいつ滅亡するか分からない状況であった。陸游は多くの愛国詩を遺したので、愛国詩人とも言われている。彼は各々の詩体に精通し、技巧も熟達し、趣も気高く清新で、南宋の大詩人となった。又彼の歌行詩は、白居易の影響を受けている。

 陸游(1125年 1125年>1125年(7年10月17日) - 1210年(嘉定2年12月29日))は南宋の政治家・詩人。字は務観。号は放翁。通常は「陸放翁」の名で呼ばれる。越州山陰(現在の浙江省紹興市)出身。南宋の代表的詩人で、范成大・尤袤・楊万里とともに南宋四大家のひとり。とくに范成大とは「范陸」と並称された。現存する詩は約9200首を数える。その詩風には、愛国的な詩と閑適の日々を詠じた詩の二つの側面がある。強硬な対金主戦論者であり、それを直言するので官界では不遇であったが、そのことが独特の詩風を生んだ。

生涯
 父の陸宰が家族と共に転勤のため淮河を移動している途中、舟の中で生まれた。その後、父が京西路転運副使に赴任するが、翌年金の侵攻をうける直前に免官されたおかげで難を逃れ、故郷に無事たどり着いた。このような境遇のなか、父がその友人達とともに論じた主戦論を聞いて育ち、強い愛国心と対金強硬論をもつに至った。

 20歳になり、母方のいとこである唐婉と結婚し仲睦まじかったが、なぜか母親・唐氏の気に入られずにすぐ離縁させられる。のちにふたりはお互い別の人と再婚し、沈園という庭園を散歩中にふたりは偶然再会する。そこで交わした詞「釵頭鳳」は有名である。陸游の彼女への思いは、後年おりにふれ彼女のことを追憶する詩をつくるほど深いものがあった。

 29歳のとき、科挙の第一段階の解試(両浙路漕試)において主席で合格したが、これが運悪く権力者秦檜の孫である秦?を差し置いたことになり、つづく中央試験である省試において横やりで不合格にされるという妨害をうけた。これにより科挙に及第するための資格を奪われ、エリートとしての出世の道を閉ざされた。ちなみに陸游は秦?とは遺恨はなく、後年陸游が四川に赴任する道中、建康に隠棲していた秦?の邸宅を訪れている。秦?も滞在中の陸游一行を厚くもてなしたらしく、陸游の家族に病人が出たとき、医師を呼んだり薬を届けたりしている。

 1158年に秦檜が亡くなると、34歳のとき福州寧徳県(福建省寧徳市)の主簿として、初めて出仕。2年後、中央に呼ばれて文書を扱う役職(勅令所刪定官)に就き、孝宗が即位すると直々に進士の資格を賜った。金領内の民衆に決起を促す機密文書などの起草を担当した。張浚の北伐が失敗して講和派が力を盛り返すと普段の積極的な発言が仇となって地方に転出させられた。隆興府(江西省)の通判(準知事)となったあと張浚の強硬論を支持していたために免官となり、故郷のちかく三山に居を構え、4年ちかく田舎で暮らすことになった。

 1170年、○州(重慶市)の通判に任命されたので、任地に赴くため五ヶ月かけて長江を遡った。そのときの紀行文が『入蜀記』である。 虞允文が宰相になり、政府中央で主戦論が高まった。四川宣撫使となった王炎に招かれて配下(四川宣撫使司)となる。陸游は張りきって偵察などの任務を精力的に行うが、中央でまた講和論が強まったため王炎は中央に呼び戻され、陸游は蜀地方各地の知事代理を転々とすることになった。四川制置使の范成大の部下となり、身分の差を越えて親しく詩を交わすなど交流した。そのことをふくめ、普段の態度が周囲から放埒にすぎると非難され辞職。このとき号を放翁とし、成都の地で寓居した。

 1178年陸游は孝宗に召還されるが、中央で重用されることはなく、結局地方勤務の提挙常平茶塩公事(専売品である茶・塩の監督官)に任命されて建寧に赴任。翌年撫州(江西省)に同じ職で転任すると、大規模な洪水がおこった。陸游は自分の一存によって官有米を使い住民の救済に充てたが、その責任を追及されて免職。郷里に帰った。これ以後は2回の任官期間を除いて、20年近くを本格的に隠棲して生活することになった。現存している陸游の詩はこの期間のものがほとんどを占める。

 1186年厳州(浙江省)の知事として赴任した。この期間中に『剣南詩稿』20巻を刊行した。任期を終えると中央での職に任じられた。孝宗としてはゆくゆくは陸游を重要なポストに就けるつもりであったようだが、孝宗が光宗に譲位すると、やはり平生からの主戦論の直言などが災いして、「風月を嘲詠した」というよくわからない理由で罷免された。このとき書屋を「風月軒」と名付けた。 また、寧宗の代に韓○冑の推薦によって出仕し、実録院同修撰同修国史となった。「孝宗実録」「光宗実録」を編纂した。このとき韓?冑の人気取り的な主戦論に利用されたとはいえ、推挙されていたことが批判のもととなった。

 故郷では、晴耕雨読の日々を送った。酒屋で大勢と酒を酌み交わしたり、豊富な知識をいかして薬を作って与えるなど、近隣の庶民と分け隔て無くつきあい、慕われていた。念願の中原回復はかなわぬながらも、素朴で安逸な生活を送り85歳で世を去った。

詩と文学
 陸游は詩作について、江西詩派に属する曾幾に師事していたので、若い頃の詩風は典故を多用し修辞を凝らしたものであった。蜀地方での赴任時代には、自然の中で暮らすようになり、また一向に進展しない対金国情勢もあって、単なる修辞主義を離れた気宇壮大かつ憂憤の情を込めた饒舌な詩風となった。そして本格的に故郷で生活するようになると、愛国・憂国の志を詠じることを忘れることはなかったが、繊細な感覚によって生活の中の機微を題材にした詩を作り、多くの詩を残した。

 陸游の名と字は、陸游の母が彼を身ごもっていたとき夢に見たという北宋の詩人秦観・字は少游にちなんだものと言われている。朱子学の創始者・朱熹とも親交があった。

  遊山西村
莫笑農家臘酒渾,豊年留客足鶏豚。
山重水復疑無路,柳暗花明又一村。
簫鼓追随春社近,衣冠簡朴古風存。
従今若許閑乗月,挂杖無時夜叩門。

  雨中泊趙屯有感
帰燕羈鴻共断魂,荻花楓葉泊孤村。
風吹暗浪重添纜,雨送新寒半掩門。
魚市人煙横惨淡,龍祠簫鼓閙黄昏。
此身且健無餘恨,行路雖難莫更論。

  其二
城上斜陽画角哀,沈園非復旧池台。
傷心橋下春波緑,曽是驚鴻照影来。

  讀陶詩
我詩慕淵明,恨不造其微。
退歸亦已○,飲酒或庶幾。
雨餘鋤瓜壟,月下坐釣磯。
千載無斯人,吾將誰與歸。

 

以下は詞です。

  浣沙溪 和無咎韻
  嬾向沙頭醉玉瓶喚君同賞小窗明夕陽吹角最關情 忙日苦多閑日少新愁常續舊愁生客中無伴怕君行   

  青玉案 與朱景參會北嶺
  西風挾雨聲飜浪恰洗盡黄茆瘴老慣人間齊得喪千巖高臥五湖歸棹替却凌煙像
  故人小駐平戎帳白羽腰間氣何壯我老漁樵君將相小槽紅酒晩香丹茘記取蠻江上

  水調歌頭 多景樓
  江左占形勝最數古徐州連山如畫佳處縹渺著危樓鼓角臨風悲壯烽火連空明滅往事憶孫劉千里曜戈甲萬竈宿貔貅
  露霑草風落木歳方秋使君宏放談笑洗盡古今愁不見襄陽登覽磨滅遊人無數遺恨黯難收叔子獨千載名與漢江流

  定風波 進賢道上見梅贈王伯壽
  欹帽垂鞭送客回小橋流水一枝梅衰病逢春都不記誰謂幽香却解逐人來
  安得身閑頻置酒攜手與君看到十分開少壯相從今雪鬢因甚流年羇恨兩相催

  感皇恩 伯禮立春日生日
  春色到人間綵旛初戴正好春盤細生菜一般日月只有僊家偏耐雪霜從點鬢朱顏在 温詔鼎來延英催對鳳閣鸞臺看除拜對衣裁穩恰稱毬紋新帶箇時方旋了功名債

  又
  小閣倚秋空下臨江渚漠漠孤雲未成雨數聲新雁回首杜陵何處壯心空萬里人誰許 黄閣紫樞築壇開府莫怕功名欠人做如今熟計只有故郷歸路石帆山脚下菱三畝

  好事近 寄張眞甫
  羇雁未成歸腸斷寶箏零落那更凍醪無力似故人情薄 瘴雲蠻雨暗孤城身在楚山角煩問劍南消息怕還成疎索

  朝中措 梅
  幽姿不入少年場無語只凄涼一箇飄零身世十分冷淡心腸 江頭月底新詩舊夢孤恨清香任是春風不管也曾先識東皇

  又 代譚得稱作
  怕歌愁舞嬾逢迎粧晩託春酲總是向人深處當時枉道無情 關心近日啼紅密訴剪緑深盟杏館花陰恨淺畫堂銀燭嫌明

  又
  鼕鼕儺鼓餞流年燭焔動金船綵燕難尋前夢酥花空點春妍
  文園謝病蘭成久旅回首凄然明月梅山笛夜和風禹廟鶯天

  臨江仙 離果州作
  鳩雨催成新緑燕泥收盡殘紅春光還與美人同論心空眷眷分袂却匆匆 只道眞情易寫那知怨句難工水流雲散各西東半廊花院月一帽柳橋風

  蝶戀花 離小益作
  陌上簫聲寒食近雨過園林花氣浮芳潤千里斜陽鍾欲暝憑高望斷南樓信 海角天涯行略盡三十年間無處無遺恨天若有情終欲問忍教霜點相思鬢

  又
  桐葉晨飄蛩夜語旅思秋光黯黯長安路忽記横戈盤馬處散關清渭應如故 江海輕舟今已具一卷兵書歎息無人付早信此生終不遇當年悔草長楊賦

  卜算子 詠梅
  驛外斷橋邊寂寞開無主已是黄昏獨自愁更著風和雨 無意苦爭春一任羣芳妬零落成泥碾作塵只有香如故   

  漢宮春 張園賞海棠作園故蜀燕王宮也
  浪迹人間喜聞猿楚峽學劍秦川虚舟汎然不繋萬里江天朱顏緑鬢作紅塵無事神仙何妨在鶯花海裏行歌閑送流年 休笑放慵狂眼看閑坊深院多少嬋娟燕宮海棠夜宴花覆金船如椽畫燭酒闌時百炬吹煙憑寄語京華舊侶幅巾莫換貂蝉

  又 初自南鄭來成都作
  羽箭雕弓憶呼鷹古壘截虎平川吹笳莫歸埜帳雪壓青氈淋漓醉墨看龍蛇飛落蠻牋人誤許詩情將略一時才氣超然 何事又作南來看重陽藥市元夕燈山花時萬人樂處欹帽垂鞭聞歌感舊尚時時流涕尊前君記取封侯事在功名不信由天

 

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