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黄遵憲体

 黄遵憲が生まれた清代末期は、清朝末期の咸豊・同治・光緒および最後の皇帝溥儀の四皇帝六十年(1851〜1911年)である。この時期には風格の違った詩人が出ている。当時「同光体」と呼ばれる一派があり、多くの詩人を排出した。然し継承したものは、それぞれに違い、多くは唐代の葦応物・柳宗元・韓愈・孟郊・賈島・姚合・呉融などと、宋代の梅尭臣・欧陽修・王安石・蘇軾・黄庭堅・陳師道などを模倣対象としていた。

 この流派の詩は、前期の詩と比較してみれば、唐以後の宋詩や前後七子以降の公安や竟陵と同じように、「窮すれば即ち変ず」という、時代の変化の先駆であった。但し自分の風格がなく、内容も現実主義的な面が欠けている。この時期に於いて独創的で成熟した詩を書いたのが、黄遵憲である。

 黄遵憲が生まれた時代は、清王朝の内外に諸問題が山積し、国家が危機に陥っている状態の時期であった。黄遵憲は詩に理念を持った詩人であった。彼の詩には時代の精神が存在し、当時の社会現象が反映され、愛国の念に溢れている。当時の史書としても読むべき価値を持っている。彼は早くから詩歌を改革すべきであると考えていた。

 彼の理念は「言志を以てその体となし、人を感動させてその用を為す」というものである。そして詩歌は独自の風格を持つべきであると考え、「格律にとらわれず、一つのスタイルにとらわれず、自分の詩風を失ってはならない」と主張し、「我が手は我が心の赴くままに言葉を書き、古典詩に拘束されることなく、復古主義を廃すべきである」と言っている。

 そして新しい言葉や新しい思想を用いて、新しい意境を想像すべきであると考えた。梁啓起は黄遵憲の詩について、「新しい思想を溶かして注ぎ込み、古い風格に入った」と言っている。黄遵憲は詩歌革命に貢献した清代の大詩人の一人である。

 中国の人々の眼が漸く海外へと向けられつつあった1848年(道光 28年)に黄遵憲は生を享けた。幼少より青年となるまでの期間は太平天国の乱が起こっていた時期にほぼ重なっているために、多感な年頃の黄遵憲本人に多々影響を与えている。たとえば黄遵憲は18歳のとき葉氏を妻として迎えているが、その数日後に太平天国軍が州城に押し寄せて避難を余儀なくされ、留守となった実家も大規模な質屋を経営していたために狙われ、莫大な損害を受けている。

 その苦難のためか詩集『人境廬詩草』では、太平天国滅亡を喜ぶ「感懐」という詩が冒頭を飾っている。彼が太平天国に怒りを覚えているのは当然であるが、注目すべきなのは効果的な対策を打てない清朝の官僚にも怒りの矛先を向けている点である。黄遵憲が生涯抱き続ける実用的でない科挙と実務に長けてない官僚への不信不満は、おそらくこの時のことが根本にある。そしてこの不信不満こそが彼の進路を方向付け、そして改革へと駆り立てたのだと言えよう。幾度かの試験失敗の後、29歳の時に挙人となり、以後政治の表舞台へと登場する。

 官吏として幾多の遍歴を経て、官を辞職し、『日本国志』の完成に専念した。そのため張蔭桓や張之洞が外交官として再度着任するよう促しても固辞したという。その10月には『日本国志』編纂の副産物ともいうべき『日本雑事詩』を『日本国志』に先んじて刊行している。『日本国志』は1887年頃に完成し李鴻章らに提出されたが、光緒帝の師翁同○や総理衙門章京であった袁昶など一部の人々に評価されるにとどまり大きな反響は無かった。

  不忍池晩遊詩
山色湖光一例奇,莫將西子笑東施。
即今隔海同明月,我亦高吟三笠辭。

  贈梁任父同年
寸寸山河寸寸金,○離分裂力誰任。
杜鵑再拜憂天涙,精衞無窮填海心。

  日本雑事詩
  総説
立国扶桑近日邉,外称帝国内称天。
縦横八十三州地,上下二千五百年。

  日中修好
載書新付大司蔵,銀漢星槎夜有光。
五色天章雲燦欄,争誇皇帝問倭王。

  薩摩與水戸
薩摩材武名天下,水戸文章世不知。
幾輩磨刀上馬去,一家修史閉門居。

  地震
一震雷驚衆籟號,頗怨霊鼇載未牢。

  華族
臣連伴造称官民,藤橘源平数世家。
将相王族眞有種,至今寥落族猶華。

  勲章
金菊花濃○幕張,鶏冠剣佩立成行。
司書載筆司勲章,拝手重光旭日章。

  貨幣
聞説和銅始紀年,近来又学仏頭銭。
双双竜鳳描新様,片紙分明金一円。

  監獄
春風吹鎖脱琅○,夕舗朝糜更酒漿。
莫問泥犂諸獄苦,殺身亦引到天堂。

  病室
維摩丈室潔無塵,薬鼎茶甌布置均。
刳肺剖心窺臓象,終輸扁鵲見垣人。 

 

 

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