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 詩詞の定義は、論者の主観に依るところが大きいので、これを論じることはとても難しい。この講も例に漏れず編者の主観に依るところとなる。

 日本の漢詩壇を含めて見渡すならば、作品には二種類の形態があるといえる。其一の形態は日中双方の作品に有る。其二の形態は日本人の作品に多く、中国人の作品には少ない。

其一
 何事に対しても、人にはそれぞれ主張がある。自分の思うところがある。詩詞とは、文字を借りて自分の思うところを、他者に訴える行為と言える。即ち情である。景を写して情を述べ、情を写して情を述べる。

 訴える相手は、国家であり、社会であり、家族であり、自分自身に対しても成立する。作品は読者に提供され、読者が作品を読むと、恰も自分自身が訴えている如き錯覚に陥らされて仕舞う。作品が読者の心中に入り込んでしまうのである。

 例えば、杜甫の兵車行を読めば、恰も自分がその場に立ち会ったかの如き錯覚に陥り、夫を徴用された農婦の悲痛な状況を我が事として、落涙せしめるのである。

 

其二
 景物の描写を主体と為す作品で、其の景物描写の中には作者の自己主張などの人格が存在せず、創作意図を窺い知ることが出来ない作品である。

 読者が其の作品に触れたとき、恰も其の現場に居合わせたが如くに、景物に触れることが出来る。景物と読者は相交わることが出来るが、創作者は立ち会っては居ない。

 観光パンフレットの如き様態である。創作者の意志が存在しない作品が果たして詩詞作品といえるのか、諸賢の論を待たねば成るまい。

 編者は敢えて観光パンフレットとして「松戸八景詩」を作ったが、夫れがこの類に該当する。日本人は紀行作品と称して、この形態を好む。

 

其一の叙事法
 景物に触れて情が起こるか、情が起きて景物を写すか、何れの場合もあるが、景物の叙事も情念の叙事も、その儘の形で文字に写すのではなく、一旦咀嚼してから文字に写すのである。依って文字で写された状況は目にした景物や沸き出でた情念と同様とは限らない。

 読者の側から言えば、文字面の儘に解釈しても、真意に到るとは限らない。また創作の側から言えば、この咀嚼が作品の巧拙を決めるのである。

其二の叙事法
 まず、其一の形態にするのか、其二の形態にするのかを、確実に決めなければならない。中途半端だと、中途半端で駄作となる。

 まず、暑い、寒い、嬉しい、悲しい、など作者の感情に関わる語彙は用いてはならない。酷暑、極寒などとし、歓喜や悲傷などの語彙は用いてはならない。そのようにして、作者に関わる語彙を完全に排除するのである。

 次に、景物の描写は、目に映る景物、耳に聞こえる音、肌で感じる寒暖や風などを克明に描写する。この事によって読者が恰も現場に居合わせたが如き錯覚に陥る。即ち観光案内である。

日本詩歌と漢民族詩歌の違い

 編者は嘗て中国詞詩壇との研究討論会席上、李芒先生と林林先生から、日本詩歌と漢民族詩歌の違いについて話されたことがある。

日本の詩人は自己のために憂う!
漢族の詩人は国家のために憂う!

これが根本的な違いです!

 漢族の詩人は国家の為に憂う!と謂うことは“安易なことは書けない、謂えない”と謂うことになります。或いは書いたとして、其れが身の危険、不利益に繋がることは十分に考えられます。亦簡単に意図が読み取られては、身の不利益に繋がりかねません。
 因って、表面上は“賦”で綴り、意図は“興”で述べるのである。これを知らない読者は、安直に単なる花鳥風月と理解し、真意が読み取れないのである。
 このような前提があるので、漢民族は“詩”を創作するには、筆が重いである。
 それに引き替え、日本の詩人は、自己のために謳うのであるから、其れによって、身の危険を感じたり不利益を被ることは無い。日本人が漢詩を述べるとき、この前提を熟知することが、先方に対する礼儀でもある。

 漢民族には詩歌に因って自己の懐を述べる手段が無いのかと謂えば、そんなことは無い!日本人が知っている漢民族の定型詩歌は、せいぜい十箇程度である。然し日本人が知らないだけで、漢民族社会で一般に通用している定型詩歌は、著者が知るだけでも数百定型はあるので、彼らは定型詩歌に於いて何ら不自由はしていない。

 彼らに謂わせれば、日本の定型詩歌が余りにも少なく、奇異でも有るし、心貧しいのではと危惧の念を懐かせたりもする。

 

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