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第二章 楚辞

 屈原及び、彼の門人追随者の詩集を楚辞と云い、詩経と同様に文学的古典として非常に尊重されている。
 屈原は文学者として中国史上最初に名を遺す人物で、伝記に曖昧な部分が多いけれども、紀元前三百四十年頃から、二百八十年前後まで生存した。
 当時は戦国の末期、秦の優勢が決定的に成りつつ有った時、屈原は秦の侵略に悩む楚国の貴族に生まれ、大臣となって国勢回復に心を砕いたが、親秦派の政敵のために失脚し、己の正義が世に容れられぬ苦悩を、厳しい調子の文学作品を通じて訴えた。
 最後には楚国の前途に絶望し、自殺したと云われるが、屈原の文学は現実に密着し、奔放で感情が激烈、且つ幻想に富みロマンチックである。
 楚国の民歌を発展させたと云う其の詩形は、詩経よりも遥かに複雑且つ多様で、中でも最大の傑作、「離騒」は、中国文学史上稀にみるスケールの雄大で、華麗絢爛たる長編の抒情詩である。

懐沙 屈原

滔滔孟夏兮  草木莽莽
 盛んに盛ん成る孟夏     草木は生い茂る

傷懐永哀兮  泪徂南土
 傷み懐て永く哀しみ 急ぎて南の國へ行く

○兮杳杳   孔静幽黙
 瞬きして見れども果てしなく 甚だ静かにして幽まり黙す

鬱結紆軫兮  離愍而長鞠
 欝がり結ぼれて屈まり傷み 愁いに係りて長く鞠まる

撫情功志兮  冤屈而自抑
 情に従い志しを調べ 無実に屈みて自ら抑う

○方以爲圜兮 常度未替
 四角なるを削りて円きと為すも 常の法は未だ替えず

易初本由兮  君子所鄙
 初めの因るところを換えるは 君子の卑しむ所なり

章畫志墨兮  前圖未改
 筋明きらかにするは墨をおもい 前の図は未だ改えず

内厚質正兮  大人所盛
 肉厚く質正しきは 大人の盛んとする所なり

巧垂不○兮  執察其揆正
 巧みなる錘も斬らずんば 誰かその正きを図るを知らん

玄文處幽兮  矇○謂之不章
玄らき模様を暗きに置けば 盲は之を模様に有らずと謂う

離婁微睇兮  瞽以爲無明
 離婁の少しくチラリと見れば 瞽は以て明かり無しと為す

變白以爲黒兮 到上以爲下
 白を変じて以て黒と為し 上を倒して以て下と為す

鳳皇在○兮  鶏鶩翔舞
 鳳皇は篭に有り 鶏と鶩とは翔り舞う

同糅玉石兮  一○而相量
 玉と石とを同じく混え 一つの升にて相量る

夫惟党人鄙固兮 羌不知余之處藏
 夫れ惟れ党人の鄙しく意固持なるは ああ余の良き所を知らず

任重載盛兮  陥滞而不濟
 任重く載せる事多きに 陥り滞りて済らず

懐瑾握瑜兮  窮不知處示
 玉を懐きて珠を握りて 窮して示す処を知らず

邑犬之羣吠兮 吠處怪也
 村の犬の群れして吠えるは 怪しむ処を吠えるなり

非俊疑傑兮  固庸態也
 俊を非として傑を疑うは 固より卑しき者の態なり

文質蔬内兮  衆不知余之異采
 文と質と内に疎なるに 衆は余の珍しき模様を知らず

材朴委積兮  莫知余之所有
 材は朴にして捨て積まれ 余の有する所なるを知る莫し

重任襲義兮  謹厚以爲豊
 仁を重ね義を襲ね 謹厚を以て豊となす

重華不可○兮 執知余之従容
 重華逢うべからず 就れか余の従容たるを知らん

古固有不並兮 豈知其何故
 古も固より並ばざる有り 豈其の何の故かを知らん

湯禹久遠兮○ 而不可慕
 湯禹の久しく遠く 遥かにして慕うべからず

懲違改兮   抑心而自強
 過ちに懲り怒りを改め 心を抑え自ら強う

離○而不遷兮 願志之有像
 憂いに罹りて移さず 志しの規あらん事を願う

進路北次兮  日昧昧其将暮
 路を進みて北に宿れば、日は昧昧と将に暮れんとす

舒優娯哀兮  限之以大故
 憂いを述べて哀めるを娯しみ これを限るに太古を以てす

亂曰
 返し歌に曰く

浩浩○湘   分流汨兮
 浩く浩き○の川湘の川は 流れを分かちて速し

脩路幽蔽   道遠忽兮
 長き路は隠れ蔽はれ 道は遠くして忽たり

懐質胞情   獨無匹兮
 質を懐き情を抱きて 独り類なし

伯楽既没   驥焉程兮
 伯楽既に没せて 驥も何処にか比べられん

萬民之生   各有所錯兮
 万民の生まれるや 各々安んずる所有り

定心廣志   余何畏懼兮
 心を定め志しを廣くすれば 余何おか畏れ恐れん

曽傷奚哀   永歡喟兮
 かさねて傷み茲に哀しみ 永く嘆息す

世溷濁    莫吾知
 四は濁りて 吾を知る無し

人心不可謂兮 知死不可譲
 人の心は謂うべからず 死を知るも譲るべからず

願勿愛兮   明告君子
 願はくば惜しむ無かれ 明らかに君主に告げん

吾将以爲類兮
 吾将に類を為さんとす


 本編は「史記」屈原伝に、自殺直前の絶筆として全編が引用され、「懐沙」とは砂や石等を懐中に入れて、投身する事を意味すると謂うのが通説である。
 「滔んに滔んなる孟夏」から、「冤に屈みて自ら抑う」、迄の十行はあてど無く放浪する屈原の旅路の光景から発想しつつ、追放された彼の限りない哀しみと怒りを歌う。
 「四角なるを以て円きと為すも」、から「羌予の藏き所を知らず」、までの二十二行は、所謂る「石の流れて木の葉の沈む」の出鱈目な世相、政治情勢、其れを横行させている政治家に対する、豊かな比喩による鋭い告発。
 「任重く載せること多きに」、から「遥かにして慕うべかからず」、迄の二十行は、屈原は繰り返して、自分が正しく生きているのにも係わらず、世に容れられない苦しみを訴える。
 「違いに懲りて忿を改め」から「これを限るに太古を以てす」、迄の八行は結論の部分で、自分の生き方を改めて決意しながら自殺を暗示して一応の結末とする。
 乱に曰く、から最後の二十二行は、丁度万葉集の長歌の後に付く反歌のように、一編の意味を短く要約した部分である。
 少しく鑑賞して見ると、若々しいエネルギーが世界全体に盛り上がるような初夏の候、草も木もボウボウと盛り上がっている
 此の生命の喜びに溢れた季節に背いて、私はただ独り、祖国の運命自己の境遇を傷み重い、尽きせぬ哀しみを抱き乍ら、追い立てられる様に、南の方の地方へ急いで行く。
 道路は大平原を貫いて走り、其の端を見極めようと、眼をしばたいて眺めても、万物はひっそりと潜まって物音一つしない沈黙の世界である。

注:「辞賦」とは韻文が散文化したもの、其の源は「楚辞」に発したと考えられ、漢代は辞賦文学の時代であると言われるほど流行した。
  そして始め叙情的な辞から、叙事的な賦に発展して行き、一見散文らしく見えるが、辞賦は対句を好み押韻を用い、努めて華麗な文辞を敷き並べ た規模の大きな作品である。

 辞賦は韻文である事には違いないが、辞賦と詩とは古来明確に区別され、伝統的な分類では「文」に属している。
 「辞」とは元来楚辞の一体で、其の名称は屈原の「離騒」「九歌」「九章」の類を総称したもので「騒」と呼ばれた。
 其の作様は「楚辞」が南方的な文学であるから、叙情的、ロマン的、情熱的なもので、前漢、東方朔の「七諫」に、後漢、劉向の「九歎」王逸の「九思」等が、辞の典型的な作品である。
 辞賦の特質は詠物を主とし、問答体の形式を取る事があり、文中に押韻し、文末には楚辞にみられる「乱」の形を取る。
 然し辞賦の文学と云われながらも、大勢は「賦」が中心となり、「辞」は、傍系となって行き、其の中にあって漢の武帝の「秋風の辞」や、晋の陶淵明の「帰去来の辞」等の作品は有名である。
 「楚辞」とは屈原を始めとして、其れに倣った漢代の作家の作品を十七巻に纏めた作品体系である。

01 離騒 屈原 02 九歌 屈原 03 天問 屈原
04 九章 屈原 05 遠遊 屈原 06 卜居 屈原
07 漁夫 屈原 08 九弁 宋玉 09 招魂 宋玉
10 大詔 景差 11 惜誓 賈誼 12 詔隠士 淮南小山
13 七諫 東方朔 14 哀時令 厳忌 15 九懐 王褒
16 九嘆 劉向 17 九思 王逸

 

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