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第七章 唐

 中国の詩が、歌謡の次元から独立し、知識人の心情告白の文芸様式として完成したのは、漢末から魏に掛けての時代である。
 詩経を経る事三百年、屈原などの「楚辞」に至って初めて独白体の詩が生まれ、然し楚辞の形式はやがて漢代に入って「賦」と呼ばれる体となって栄え、韻文でありながら散文に近い性質を持つようになり、前漢と後漢を通じて、賦は代表的な韻文の形式として位置し、後漢の末、五言の形が歌謡から詩に取り入れられた時、茲に初めて狭義の「詩」が成立した。
 魏から晋南北朝隋と、即ち唐の帝国が成立する直前まで約四百年、詩と云えば五言詩であって、七言は二世期末には既に成立していたが、尚完成した詩形とは成らず、これの作者も少ない。
 五言詩の初期の代表作家は、魏の曹植で、彼は一面で民歌の叙情性を歌うのみ成らず、自己の内面を潜める態度の詩も取り入れて、阮籍や・康は曹植の後者の傾向を独自な形で発展させた。
 他の多くの詩人達は、前者の傾向を更に進め、技巧的な面での発展を見せ、此の二つの流れの上で南朝の謝霊運、謝○、などの優れた詩人が排出され、発達の絶頂に達したのは八世紀の半ば頃に当たる盛唐の時代で、これを中心とする前後三百年間の唐代こそは、将に詩の黄金時代とも云うべき時期であった。
 後代この唐代を文学的見地から、三期と四期に分ける二通りの分け方があり、三変とは唐の姚鉉の編「唐文粋」欧陽修の編「新唐書」に依る分類法で、四変とは宋の厳羽編「滄浪詩話」の議論であるところの「盛唐こそが絶頂で、これを祖述する事が望ましい」と提唱した事により、明初の高秉がこれをより強力に主張して「唐詩品彙」を編み、初唐盛唐中唐晩唐の四期に分類した。
 初唐は六一八年から七0九年 盛唐は七一0年から七六五年 中唐は七六六年から八三五年 晩唐は八三六年から九0六年迄を云う。
 唐の時代に此迄比較的自由な形式であった詩に、定型詩である「絶句」「律詩」などが新たな詩形として加わった。
 そして一般に此の時代に出来た定型詩を「新体詩」又は「近体詩」とと云い、唐以前から有った詩形を、唐よりも古いと言う意味で、「古詩」と云うように成った。
 依って古詩とは詩形の名称であって、古い時代の作品はこれを区別して「古辞」と云う。
 古詩に有っても全くの自由では無く、比較的自由と云う事で、応分の規約はあり、これを「古詩平仄法」と云う。
 なお五言律詩は、初唐の四傑と言われる、大勃 揚烱 廬照鄰 駱賓王などに依って完成されたとも云われている。

 


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七の一  初唐

霊陰寺  五言排律 駱賓王
 霊陰寺

鷲嶺欝○嶢 龍宮鎖寂寥
 鷲嶺欝として○暁 龍宮は鎖されて寂寥

樓観蒼海日 門對浙江潮
 楼には観る蒼海の日 門に対す浙江の潮

桂子月中落 天香雲外飄
 桂子月中より落ち 天香雲外に飄る

捫蘿登塔遠 刳木取泉遥
 蘿を掴んで塔に登る事遠く 木を抉りて泉を取る事遥かなり

霜薄花更發 水輕葉互凋
 霜は薄く花更に開き 水は軽くして葉互いに萎む

夙齢尚遐異 捜對滌煩囂
 夙齢遐異を尚び 捜對煩囂を滌う

待入天臺路 看余渡石橋
 天台の路に入るを待って 余が石橋を渡るを看よ

注: 此の詩の作者は、「宋之問」として掲載された詩集もある。

 若い頃から遥かな世界の珍しい物に憧れていたが、今此の霊域を探り当てて、俗世の煩わしさが綺麗さっぱりと洗い流された様だ。
 これから私は天台の路へ入って行く、、、、、、

子夜春歌 五言絶句 郭震
 子夜春歌

陌頭揚柳枝 已被春風吹
 陌頭揚柳枝 既に春風に吹かれたり

妾心正断絶 君懐那得知
 妾が心正に断絶す 君が懐い那んぞ知るを得ん

注: 詩題の「子夜歌」とは、楽府題、即ち歌曲の題名で、四世紀「晋」の時 代の頃、今の揚子江の下流、呉の地方に「子夜」と呼ばれる女性が居て、歌曲を作って歌ったが、其の曲が男女の愛情を歌って、甚だ哀切なものであった為、当時の人々の好みに合い非常な流行を見た。
此の曲を「子夜歌」と云い、初期には楽器の演奏を伴わなかったらしいが、後には整備されて春夏秋冬の四部に分けて歌詞が作られるに到った。
 其れが「子夜四時歌」で、郭茂倩の「楽府詩集」には、春歌二十四首、 夏歌二十首、秋歌十八首、冬歌十七首が収録され、茲に挙げた詩は其れに倣って郭震が作った「子夜四時六首」の中の春詩で、春に感じて夫を思う情を述べる。

蜀中九日 七言絶句 王勃
九月九日望郷臺 他席他郷送客杯
人情已厭南中苦 鴻雁那從北地來

 九月九日重陽の節句に、名前からして郷愁をそそる望郷台に登り、よその土地のよその席で、旅人を送る別れの杯を取り交わす。
 私の心はもうほとほと、南の土地の辛さに厭き果てているのに、何であの雁は北の土地からこんな南の土地へ飛んで來るのだろうか。
 雁は北の土地を故郷とするもの、其れが九月になっても飛んで来て帰ろうとしないのは、何と当てつけがましい眺めであろうか。

注: 此の詩は一句を七文字で歌う七言絶句で、絶句という名称は既に六朝時代から用いられて居るが、其の語源に付いては律詩の八句を半分に断ったものだと言う説、又は歌謡である楽府が四句を一つの単位として歌った事から、これだけを断ち切って作った詩で有るという説など、種種な説明が行われていて今日に定説はない。
  何れにしても絶句は四句で歌われた詩の事で、一句五文字の詩を五言絶句と言い、茲に挙げた詩のように一句七文字の詩を七言絶句と云う。
  五言は既に六朝の時代から多く作られて居るが、七言は唐に入ってから時代の要求に応じて急速に発展した新しい詩形で、従って唐では七言が最 も多く作られ五言は比較的少ない。
尚、唐以後の絶句は、五言七言共に近体詩として作られた作品が多く、韻律や押韻の規則も、律詩の其れと変わりはない。

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七の二  盛唐

 盛唐とは、玄宗の改元から玄宗の子蕭帝(名亨)迄の約五十年間を云い、丁度杜甫の活躍した時代でもある。
初唐百年間に昇り続けてきた唐の国運が、厭が上にも栄え海内は太平の全盛時代であった。
 然し其の全盛の中にも何時しか頽廃の影が忍び寄り、天寶に入ってからの玄宗の治世には、国家を破滅に導く条件が幾つも重なりつつ有った。
 政治に飽きた玄宗が、揚貴妃の愛に溺れた事と其の間隙につけ込んで、渦巻いた李林甫 揚国忠 安禄山の三巴の勢力争などで、幸いにも乱は間もなく平定されたが、これに依って受けた傷は癒すべくもなく、国運の衰退は加速されていった。
 こうした時代の前半、全盛の時代には多数の優れた詩人が肩を並べ、一時に美しい花となり、色とりどりに撩乱と咲き乱れた。
 王維は仏教的な静謐の中に孟浩然は自然の中に逃れて、共に山水自然の美を歌い、王昌齢は七言絶句に閨怨の世界を、高適や岑参は邊塞詩人の名を欲
まま
しい侭にしたが、然し何と云っても最大の詩人は李白と杜甫である。
 此処で初唐と盛唐に登場する詩人を挙げる。

初唐 魏徴 王績 王勃 揚烱 廬照鄰 駱賓王 李○ 蘇味道 劉庭芝 張若虚 沈○期 宋之問 蘇○ 廬撰 郭震 賀知章 李○ 胃韋 元旦 陳子昴 張説 賈會 張九齢 孫逖 張啓忠 張諤 劉庭 王幹

盛唐 孟浩然 張子容 王湾 李○ 李適之 萬楚 祖詠 蔡希寂 丁仙之 崔國輔 王昌齢 王之渙 崔○ 崔曙 李燈 張均 玄宗皇帝 王維 裴迪 丘為 李白 儲光義 常建 張巡 杜甫 高適 岑参 李華 蕭頗士 賈至 張謂 厳武 葭業 崔恵道 崔敏童 櫻穎 張審 呉象之

 

春暁 五言絶句 孟浩然

春眠不覺暁 處處聞啼鳥

夜來風雨聲 花落知多少

 これは春の夜明けにベットの中で、うつらうつらとしながら、戸外の春を詠んだ詩で、第一句にも押韻していて、仄文字押韻の詩である。

注: 「知」の文字、その下に疑問詞を伴う時は始んど反語に読み、結局は不知の意味になる事、詩に屡々見られる語法である。
「多少」とは日本語の意味異なり、肯定+否定・疑問で是不是 能不能 会不会 などと同様の疑問詞で有る。

閨怨 七言絶句  王昌齢

閨中少婦不知愁 春日凝粧上翠樓
 閨中の少婦愁いを知らず     春日粧いを凝らして翠楼に上る

忽見陌頭揚柳色 悔教夫婿覓封候
 忽ち見る陌頭揚柳の色   悔いゆらくは夫婿をして封候を覓め教しを

 閨とは婦人の部屋、その中での女性の物思いを詠ずるのが、「閨怨詩」である。
 茲に挙げた詩は出征兵士の若妻が、夫の帰りを待ちわびる嘆き悲しみを歌う、下町風情の平凡な女性であろうか、夫が従軍していても一向に其れが苦にも成らず、勿論人生の問題なんか考えた事もない。
 だから「閨中の少婦愁いを知らず」若い嫁さんは悲しみというものを知らずに、心は浮き浮き陽気に弾んで、うららかな春の日、良い天気だというので厚化粧をして二階へ上がってみた。
 ふと目に留めたのは何時の間に芽吹いたのか、往来の端の柳の色の鮮やかさだ。 その柳は夫が出発の時、一枝折って別れに贈ったあの柳だと気付き、急に彼女は後悔する。
 早く手柄を立てて下さい等と云って仕舞ったものだから、独り寂しく過ごさねば成らないのだと、、、、、、。
 詩は初めて茲に至って、主題の閨怨を詠う。

涼州詞 七言絶句 王之喚

黄河遠上白雲間 一片孤城萬仭山
 黄河遠く上る白雲の間 一片の孤城萬仭の山

羌笛何須怨揚柳 春光不渡玉門関
 羌笛何ぞ須いん揚柳の怨 春光は渡らず玉門関

 羌笛とはチベット遊牧民族、羌族の吹く笛。
 揚柳とは「折揚柳」と呼ばれる別れの悲しみを述べた笛の曲名。

 こんな所で戎の笛が、どうして柳を怨んで「折揚柳」の調べなど吹く必要があるのだろうか、中国本土を照らす春の光は、玉門関を越えてこちら迄は来ず、此処には揚柳も無く有っても芽を吹かないと云うのに。
 柳が芽を吹かぬ事を怨む事と、曲に述べられる別れの怨みをも意味する。

注: 此の詩に付いてこんなエピソードが伝えられている。
  ある時王之喚が親友の王昌齢や高適と連れだって、とある酒楼に上がっ たところ、たまたまそこに来合わせた宮廷楽師十数人が名に聞こえた妓女 を挙げての大酒盛り。
  三人は密かに相談して云うには、これらの名妓が三人の中、誰の詩を歌うかに依って、その優劣を決めようと。
 斯くして待つ中、最初に歌い出されたのが王昌齢の詩、次いでは高適の 詩であった、気を悪くした王之喚「きゃつら老耄女の歌うのは下品の詩ば かり、上品の詩には近ずこうともせぬものだ」と言い、妓女の中の一番の美人を指して、「あの妓の歌うのが、拙者の詩でなかったら諸君との張り合いは止めた。もし拙者の詩だったら諸君は床下に並び伏して拙者を師と崇めるね」と。斯くしてその妓女が歌ったのは此の詩(涼州詞)であった。
注: 詩題に云う涼州とは、今の甘粛省武威県、当時は都を遠く離れた邊塞の地で有った。
  その地方に唄われて居た俗曲に涼州歌と言う歌が有り、玄宗の開元年間、時の西京都督で有った、郭知運に依って、朝廷に献上されたと云う史実が ある。(詩詞譜編参照)
此の作は其れに合わせて新たに作った歌詞で、王翰の作にも同じ様な詩がある。

怨情 五言絶句 李白

美人捲珠簾 深坐顰蛾眉

但見涙痕湿 不知心恨誰

 女性と言っても恐らくは、天子の寵愛を失った官女で有ろうか、其の切ない恨みの情を歌った詩である。

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七の三  中唐

 中唐とは、杜甫が亡くなる前年(大暦五年)から文帝の太和末年に至る約六十五年間の時期を云う。
 安禄山の乱は唐の歴史の転換であったと同時に、文学にも非常に影響をもたらし、即ち初唐から盛唐までの唐詩の発展だけを取って見ると、それはごく順調な上げ潮だったと言える。
 然し安禄山の乱以後、唐詩は目に見えない引き潮の中にあって、盛唐までの詩が春野の原を覆う百花斎放の季節だったとすれば、中唐以降の詩は秋の草花の様な詩で、人の目を奪う強い色彩は最早無いが、然し秋の七草や菊の花を思わせる物は矢張り咲き続け、亦吹きすさぶ木枯らしに耐えて、強い骨を持った詩人も少なくなかった。

中唐 劉長卿 包何 皇甫冉 郎士元 朱放 長継 張南吏 顧況 釈皎然  載叔倫 銭起 李端 耿○ 司空曙 廬綸 韓翊 韋応物 李益 王表  王烈 王建 羊士諤 武元衡 孟郊 張籍 韓愈 欧陽○ 張中素 呂 温 劉禹錫 劉宗元 元穎 賈島 張○

題木居士二首 七言絶句 風刺詩 韓愈
其一

火透波穿不計春 根如頭面幹如身
 火の透り波の穿って春を計らず 根は頭面の如く幹は身の如し

偶然題作木居士 便有無窮求福人
 偶然に題して木居士と作せば 便ち窮はまり無く福を求める人有り

 野火が通り抜け、川波が穴を穿ちつつ幾年過ぎただろうか、根は頭や顔のようで幹は身体のようだ。
でくにんぎょう
 何かの機会に「木の羅漢様だ」と名付けられたばかりに、其の木偶人形にご利益を求める人が、限りなく居るものだ。

其二
爲神○比溝中斷 遇賞還同爨下餘
 神と為すは何ぞ溝中の断に比せん 賞に遭うは還た爨下の余に同じ

朽○不勝刀鋸力 匠人雖巧欲何如
 朽蠧して刀鋸の力に勝へず 匠人巧なりと雖も如何んせんかと欲す

 神様に祭られて居るのは、溝の中の切れ端よりはましだが、愛でられたと云っても、薪の燃え残りの琴と同じ様なもので、ボロボロの虫喰いは、小刀細工する力にも耐えないので、腕利きの大工にもどうしょうも無いものだ。

注: 木像を神として幸福を祈る人たちに対する風刺詩で有る。

 

新楽府 五十編 其四十一  (諷諭詩)

官牛 諷執政也    白居易

官牛官牛駕官車 産水岸邊搬載沙
 官牛官牛車を駕し 産水の岸辺より沙を搬載す

一石沙 幾斤重 朝載暮載将何用
 一石の沙 幾斤の重さぞ 朝に載せ暮れに載せ将に何に用いんとす

載向五門官道西 緑槐陰下鋪沙堤
 五門官道の西に載せて向かい 緑槐陰下の沙堤に鋪く

昨來新拝右丞相 恐怕泥塗汗馬蹄
 昨來新たに拝す右丞相 泥塗馬蹄を汚さん事を恐怕れる

 右丞相

馬蹄踏沙雖浄潔 牛領牽車欲流血
 馬蹄砂を踏み清潔なりと雖も 牛の首は車を牽きて血を流さんと欲す

右丞相 但能澪人治國調陰陽
 右丞相 但能く人を済い國を治め陰陽調えば

官牛領穿亦無妨
 官牛襟を穿たるるも亦妨げ無し

 官庁車に繋がれた御上の牛が産水の岸辺から砂を運んでいる。
 車に積んだ一石の沙、幾斤の重さであろうか、朝に暮れにと運んでいるが、一体何の為に使うのか。
 積んで行く先は五門の前の大通りの西の邊、槐の木陰で沙堤に敷く砂らしい、其れで分かった。
 昨日來、新たに任命された右大臣様の馬の蹄を泥んこ道で汚しはせぬかとの気遣いなんだ。
 砂を踏んだ大臣様の馬蹄は綺麗で済むが、車を引っ張る牛の襟首は血が流れそう。
 でも右大臣様が、立派に民を救い國を治め、陰陽の気を和らげて下さるなら、牛の襟首に穴が開く位は構いませんが。


食後 (閑適詩)白居易

食罷一覺睡 起來両甌茶
 食罷りて一覚の睡り 起き来たりて両甌の茶
 食事が済んで一眠りし 目が醒めると二椀の茶を啜る

擧頭看日影 已復西南斜
 頭を挙げて日影を見るに 已に復た西南に斜めなり
 頭をもたげて空を見ると 何時しか日は西南に傾いている

楽人惜日促 憂人厭年○
 楽しき人は日の慌ただしきを惜しみ 憂うる人は年の長きを憂う
 快楽を追う人は日の移り変わりの慌ただしいのを惜しみ
 憂いを抱く人々は一年の長いのに閉口する

無憂無楽者 長短任生涯
 憂いも無く楽しみも無き者は 長きも短きも生涯に任す
 憂いもなく楽しみもない私は長きも良し短きもよし、全て生涯の成りゆき任せ

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七の四  晩唐
 
 晩唐とは、文宗の開元年間(八三六)から唐の滅亡(九0九)に至る約七十年間を云う。
 此の時代に入って唐の国家はいよいよ疲弊し、一路崩壊の道を辿る様に成しまって、遂に朱全忠(八五二ー九一二)の手に依って滅ぼされて仕舞った。
 文学に於いても世紀末的、頽廃的様相を帯びる様に成って、古詩製作の意欲はとみに衰え、詩壇の主流は再び典麗精緻な形式へ戻る中で、詩の格調は極度に繊細化し、内容もよりローマン的と成って、一種の唯美主義とも云うべきひたむきな美が追求された。(西崑体)
 李商隠 温庭・ 韓・ 等の文学が其の代表的な物で、これ等の詩人が出現して唐詩の最後を飾ったが、全体としてそこには最早盛唐詩が持っていた強烈な色彩は無く、衰退して行く唐の最後の輝きと言える。
 
晩唐 文宗皇帝 許渾 干武陵 李商隠 温庭○ 趙○ 段成式 葭瑩 司馬禮 張喬 李拯 崔魯 廬弼 偉荘 王周 韓○ 李建勲 釈処黙 白居易

夜雨寄北 七言絶句 李商隠
 夜雨北に寄す

君問歸期未有期 巴山夜雨漲秋池
 君は歸期を問うも未だ期有らず 巴山の夜雨秋池に漲る

何當共剪西窓燭 却話巴山夜雨時
 何か当に西窓の燭を剪り 却って巴山夜雨の詩を話すべき

 北方の長安に居る妻か愛人に書き送った詩である。
 何時お帰りになりますのと、そなたは私の帰る期日を訪ねてきたが、何時帰れるとも其の期日は分からない。
 今、私のいる巴山の麓では、降りしきる夜雨が秋の池一杯に漲っている。
 二人共々あの西向きの窓辺で、蝋燭の芯を鋏で剪りつつ夜遅くまで話し合う中、さてはと巴山夜雨の時に及んで、私の今の状況をそなたに話すのは、何時の時であろうか。
 
注: 自分の今置かれている巴山夜雨という状況、其れを未来の対話の話題として想像する手法を取っている。
  却ってと言うのは、妻と対話する中、さてはと話題が転換する事を示したものである。

秋日湖上 葭瑩
落日五湖遊 尤韻 煙波處處愁尤韻
浮沈千古事    誰與問東流尤韻
 作者が秋の夕暮れ、湖上に船を浮かべ遊んだ時の感慨を述べた詩。

注: 五言絶句では、通常第一句には押韻しない事が多いが、此の詩は「尤」で押韻している。

赤壁 七言絶句 杜牧 (詠史)


折戟沈沙鐵未消 自将磨洗認前朝
 折戟沙に沈んで 鐵未だ消せず 自ら磨洗を将って前朝を認む


東風不與周郎便 銅雀春深鎖二喬

 東風周郎が與に便ぜずんば 銅雀春深くして二喬を鎖さん

 赤壁の戦い、あの時万が一にも東風が吹かなかったら、周瑜には都合良く行かなかった。
 春深き銅雀の亭に美しい喬氏の二人は何時までも閉じこめられる、悲しい運命を過ごしたで有ろうか。

  二喬ーー呉の地方の二人の美女の姓、姉は孫権の兄 孫策に、妹は周瑜の妻と成った。
注: 此の詩は実際には起こらなかった事を、仮に「起こったとしたら」 と言う想像の産物である。

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七の五  詞

 唐末宋に於いて発達した「詞」が有る、これは民歌から発達したと言われ、今世紀に於いて中国人は往々にして、「詞」の方が「詩」よりも好んで作ると言われている。
 詞とは初めに元歌が有って、其の元歌のリズムに倣って「字句を埋めて行く」替え歌の様な物で、又の名を「詩余」とか「填詩」などと云われ、八百二十六調、二千三百六体の詞譜は世界の定型詩の中で類を絶している。
○は平文字         ●は仄文字
◎は平韻文字        ★は仄韻文字
注:印の無い文字は平仄を問いません。

長相詞 生査子 とは元歌の名で「詞牌」と云う。

長相思(詞牌名)    唐白居易
汁水流 泗水流
 汁水流れる   泗水流れる

流到瓜州古渡頭 呉山點點愁
 流れて瓜州古渡の頭に到る 呉山点点の愁い

思悠々 恨悠々
 思い悠々 恨み悠々

恨到歸時方始休 月明人倚樓
 恨みは歸時に到りて方に始め休めん 月明らかに人は樓に倚る

生査子    唐韓○

侍女動妝匳 故故驚人睡
 侍女くしげを動かし 事更に人の眠りを驚かす

那知本未眠 背面偸垂涙
 那んぞ知らん本未だ眠らざるを 面を背けて秘かに涙を垂る

懶卸鳳凰釵 羞入鴛鴦被
 懶うく卸す鳳凰の釵 恥らいて入る鴛鴦の被

時復見残燈 和煙墜金穂
 時に又残灯を見る 又煙金穂を落とす

 恥じらいながら夜の襖に入る ふと気付くと灯火を消し忘れていた。
そして灯芯の穂が落ち 煙が立っていた
○ 前段後段の区切りで、此の詞は前段後段の二段より成り立つ。

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山形有朋対聯漢俳漢歌自由詩散曲元曲漢詩笠翁対韻羊角対填詞詩余曄歌坤歌偲歌瀛歌三連五七律はこの講座にあります