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第九章 金

 金と云う王朝(1115年ー1234)は女真族の立てた政府で、満州 華北に跨り、北京開封に都したが十三世紀に入って蒙古に滅ぼされた。
 金王朝は其れ迄の文化に対する理解が深く、多くの文化や制度が以前の侭に尊重され、此の後に來るモンゴルに比べて極めて幸いな事であった。
 宋は金に圧迫されて、淮水を境として南に退き杭州に都し、北に金王朝、南に宋王朝と都したが、共にモンゴル人に依って滅ぼされ「元」となった。 依って南宋の時代と金の時代とは時間的に見れば重なって存在して居るのだが、此処で云う金詩と言うのは、金の彊域に生活していた人の作品を云う。
 その後女真族は「民」を経て再び「清」を建国した、其の彊域は元に次いで史上二番目である。

續小娘歌 元好門
其の一
 「続」と有り、歌い得たり唱娘相見曲と有るところから、一般に唱娘曲なる歌があり、其の替え歌として作られたと思われる。

注: 蒙古軍の侵略に対し人民は死か奴隷か二つしか選ぶ路はなかった、死を免れた者は奴隷として蒙古の地に投入され、此の詩は金末の混乱期に至る所で見られたで有ろう蒙古軍による略奪連行を歌う。

呉兒沿路唱歌行 十十五五和歌聲
 呉兒路に沿いて歌を唱い行く 十十五五和歌の聲
 呉國の若者は路を行くにも歌を唱いながら行く、十十五五と合唱の聲

唱得唱娘相見曲 不解離郷去國情
 唱い得たり唱娘相見の曲 解せず離郷去國の情
 唱うのは唱娘の逢い引きの歌、郷を離れ國を去る気持ちなど解りもしないのだが

其の三
山無洞穴水無船 單騎驅人動數千
 山に洞穴無く水に船無し 単騎人を駆りてややもすれば数千
 山には洞穴も無ければ河には船もない 一人の騎馬兵が駆り立てるのは、じきに何千という數になる

直使今年留得在 更教何處過明年
 たとえ今年は留まり得て在るも 更に何処にか明年を過ごさん
 例え今年は此処に留まる事が出来ても、何処で明年過ごす事に成るやら

其の五
風沙昨日又今朝 踏砕・頭路更遥
 風沙昨日又今朝 ・東を踏砕して路更に遥かなり
 砂の風は昨日も今日も 娘達は靴下を履き潰したが、路は更に遥か

不似南橋騎馬日 生紅七尺繋郎腰
 似ず南橋騎馬の日 生紅七尺郎の腰に繋ぎしに
 南橋の繁華街で、若者と一緒に一つの馬を乗り回し、真っ赤な七尺の帯を彼の腰に締めてやった時とは、似ても似付かぬ。

其の八
太平婚家不離郷 楚楚兒郎小小娘
 太平の婚家郷を離れず 楚楚たり兒郎と小小娘
 太平の世の結婚は、郷から外へは出なかった きゃしゃな坊やに可愛らしい娘達

三百年來涵養出 卻将沙漠換牛羊
 三百年来涵養されて出ず 卻って砂漠に率いられて牛羊に換う
 三百年このかた甘やかされて来たのに 今や砂漠に連れていかれ牛や羊と取引されるのだ。

其の九
飢烏坐守草間人 青衣猶存舊領巾
 飢烏坐守す草間の人 青衣猶舊の領巾を存す
 飢えた烏が草原に崩れ落ちた骸骨の番をしている 青い上着の女で有ったろう、古いスカーフが其の侭残って居る

六月南風一万里 若爲白骨便成塵
 六月南風一万里 如何ぞ白骨便ち塵と成る
 万物を生育する筈の六月の南風が、一万里もの彼方から吹いて來るのに、
どうして其れに背いて白骨は忽ち塵に化して行くのか。

注: 連作の詩を作る場合、一首毎に「韻」を換えなければ成らない、長編の詩を作る事は仲仲難しいが、四句の詩を其の一、其の二として作れば、比較的容易に長編と同様の内容を表現する事が出来る。


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